2009年10月29日木曜日

隙間


誰にでも隙間がある。

その隙間は時々刻々形を変える。
似たような形をしているけれど、でもまったくおなじではない。
だから、その隙間に嵌まるものも、その時々で違った形をしている。

今日の私は。
今日のあなたは。
いったいどんな形の隙間を抱えていたのだろう。

そして今日のあなたの隙間は。
どんな形で埋められたのだろう。

隙間があるから。
埋めてくれるものがあることに気がつく。

隙間があるから。
ひとはひとりでは生きてゆけないと知ることができた。

2009年10月28日水曜日

無。


心のなかをからっぽにして。
空を見上げる。

心は反射鏡。

美しい景色を見れば、美しい輝きを返す。

2009年10月27日火曜日

瞬間


ブログを書くようになってよかったこと。

ブログに載せる写真を撮ろうと、ふとした瞬間に足を止めるようになった。
これまでの私だったら気づかずに通り過ぎた瞬間、或いは気持ちのどこかにわずかに触れて、でも足を止めるほどのこともなく過ぎ去っていた、そういった一瞬に、今の私は立ち止まる。

私が好きな瞬間。
私を瞬間捉えたなにか。

それはほんの一瞬の空の動き。
雲の形。
木々の隙間から漏れる光彩。
雨に濡れたアスファルトのわずかな湿り気。
どこまでも続いていくかのような道。
風に翻る国旗。
鮮やかな色をひっそりとのせた花弁。

たったそれだけのもの。

たったそれだけのものが私の心を作っている。
そのことに気づいた、一瞬間。

足を止めた私が手に入れた、大切なもの、私のかけら達。

2009年10月26日月曜日

贅沢な生き物。


毎日がこともなく過ぎていく。
ことに、感謝を忘れる私が、時々いる。

毎日がとりたてて格別のこともなく過ぎていく。
大きな不幸がないこと、への、感謝を忘れている私がいる。

「感謝をしなさい」
「感謝をしなければ」

人間は感謝を知らない生き物。
だからきっと「感謝」という言葉が生まれたのだろう。

いつもいつも、四六時中、寝ても醒めても。
感謝をしようと思えば、身の回りのすべてに感謝することが出来る。
そのくらい人間は、依存しなければ生きていけない生き物だ。
だけれど、もし身の回りのすべてに四六時中、二十四時間感謝し続けていたらきっと息が詰まる。

なので、人間は「忘れる」ことが出来る生き物になったのだと思う。

今日の出来事、良かったこともすこし悲しくなったことも。
どちらも人間は忘れてしまう。
だから明日も生きていける。

良かったことも悪かったことも。
忘れて、時々ふと思い出す。
だから人間に「感謝」という言葉が授けられたのかもしれない。
忘れていたことにほんのすこし感じる気まずさと気恥ずかしさのために。

2009年10月25日日曜日

「かんじんなことは目に見えない」


「こころで見なくちゃね」


有名な「星の王子さま」の一節です。

星の王子さまというのは非常に難しい童話だと思います。
アフォリズムに溢れ、人生の哀歓に溢れ、子どもにとってはすこしストレートではない表現で描かれた物語。
この物語が「大人のために書かれた(描かれた)童話」と言われる所以でしょう。

私はこの本をある程度大人になってから・・・高校生時代に初めて手に取ったような記憶があります。
象を飲んで動けなくなったウワバミの絵。
純粋ではない大人にはそれがなんだか分からない、帽子の絵としか見えない。
そんな出来事を忘れて大人になっていた僕の目の前に現れた小さな星の王子さま。
彼だけはそれがひとめで「象を飲んで動けなくなったウワバミの絵」だと分かってくれた。
それから、小さな王子さまは僕の大切な友達になった。
当時、相当にヒネた文学少女だった私は、このエピソードにノックアウトされ、作者のフランス人らしいエスプリの効いたアフォリズムに惹かれました。

しかしそれから何年も経って、箱根の星の王子さまミュージアムに行ったときに、初めて、物語の中に出てくる高慢で我が儘、しかし王子さまの大切なバラの花が、作者サン=テグジュペリの妻の投影であることを知り、この作品は、砂漠で飛行郵便夫を務めるサンデグジュペリの心のうちを綴った・・・それはある意味では創作であり、ある意味ではまったく創作でなく彼の心の内奥を小さな王子さまの姿を借りて吐露した真実の物語だと知り、私のこの物語への思いはいっそう深まりました。

この物語は子どもの心を忘れた大人へ、子どもの心を思い起こさせる作品だ・・・と、紹介されることがままあります。
しかし私には、この作品は、大人になりきれないままに大人になってしまった孤独を癒したい人のための作品ではないかとしばしば思えます。

この作品のテーマは「孤独」

大人は孤独です。
作品に登場するステレオタイプな7人の大人達。
これを童話として捉えるのならば、それはありふれた警句のように見える。
しかし、その滑稽な姿に皮肉を感じながら、それでもひとりぽっちで生きていくしかない彼らの姿に、私はどこか強烈な孤独を感じてしまう。
大人であることの、大人になりきれていないことの哀しみ。
滑稽な大人たちも、主人公である僕も、つねに「本当の僕の心を分かってくれる誰か」を求めているように思えてなりません。

本当の子どもは、孤独ではありません。
彼らには常に「子どもだけの世界」があり、その世界のなかで彼らの自由な想像力によって作り上げられた独特の世界を共有していつでも夢の世界に羽ばたけるのです。
理解を得られず、理解してくれる友を求めて孤独を感じるのは、実は大人の感性ではないかと。
私はそういう風に思うのです。

五千ものバラ。
でもそのどれも「ぼくのバラじゃない」
ぼくにとってたったひとつのバラであることの意味。
その意味を見出したとき、初めて人は、孤独ではなくなるのかもしれません。

2009年10月21日水曜日

空。


どうやら私は、空が好きらしい。
気がつけば空ばかりを撮っていた。

毎日、空を見上げる。
雲を見る。
だから雨の日は、それはそれで味わいはあるのだけれど、すこし寂しい気がする。

どんな雲も、どんな青も。
おなじカタチは二度と現れない。
瞬間瞬間でふっと潔くカタチを変えていく、一度きり、もう二度と逢えない。

川も、海も。本当は人でさえ。
一瞬たりともまったくおなじでは在り得ない。
だけど川も海も。
今、私が生きている場所からはすこし遠くて。
でも空は、見上げればいつも私のすぐ真上にいるから。

だから私は毎日空を見上げる。

この雲は、もう二度と見ることのない雲。

本当は私も。
そしてあなたも。
今日がはじめまして、明日も、明後日も、はじめまして。
そんな風に毎日、傍にいてくれる人達に逢えたら。
今日もありがとう、明日も、明後日も。
ありがとう。

2009年10月20日火曜日

電線の空。


気持ちのよい秋晴れの朝。
ふと空を見上げた。
私の目線をたくさんの電線が横切った。
これが、私の空。

電柱を地下に埋めるのだと。
はじめに聞いたときは、なんて馬鹿馬鹿しいのだろうと思った。
そのころの私の空は、遮るものひとつない、広い広い空だったから。

でもあれから何年経っても、電柱は地下深くには埋まらず、我が物顔で地上を占拠している。
そして今、私の目線にはたくさんの電線。

200年の昔、1000年の昔。
昔の人達が見た空はきっとこんなではなかっただろう。

だけど電柱が地中深く姿を隠すようなときがもし本当に来たとしても。
その空は、200年前の空ではなく、1000年昔の空でもない。

この電線は、わたし達のライフライン。
人類の進歩の証、わたし達の日常の標(しるし)。
たしかに視線を遮って、たしかに広々とした空を断絶してしまうけれど、でも。

わたし達がこれまで歩んできた道のりのひとつの証がこの電線なのだとしたら。
いつかこの電線が消えてなくなることもまた、わたし達が歩んでゆく道のり。

世界はどんな風に変わっていくのだろう。
たとえ線が消えても遠い昔とは異なった風景が広がる、50年先、100年先、その先のもっと未来は、いったいどんなカタチをしているのだろうか。

そのカタチを見てみたい。
ふと、そんなことを思った秋の空。