
食について書かれたエッセイがとても好きだ。
なかでも池波正太郎のエッセイは大好きだ・・・実は彼の本業であり大ベストセラーにもなっている時代小説は一冊も読んだことがないのだが。
そのほかにもいくつかお気に入りの「食」の本がある。
私自身が食べることが非常に好きだから・・・ということを抜きにしても、他人の「食」は非常に興味深い。
それにはいくつか理由がある。
ひとつ。
「食を楽しむ人は人生を楽しむ人也」
同様に、「仕事を楽しむ人は人生を楽しむ人也」というのも、わたくしの持論のひとつである。
人生の大半を、人は仕事をして過ごす。
例えば一日の目覚めている時間を十八時間としたならば、現代の勤め人は実にその七割、八割を職場で仕事をして過ごす。
人生の七割、八割を楽しめなければ、当然、人生を楽しめる道理がない。
同様に、人間は一日三度、または二度、食事を取る。
どんなに忙しくでも、どんなに食べたくなくても、たとえそれがたった5分で終わるものだったとしても、だ。
日に二度の、一年に730回(または1095回)の食事を楽しみにして待つか、それともただの消化作業として済ますか・・・・・・
それによって人生で体感できる幸せの絶対回数は大きく変わるだろう。
毎日会う人と交わす挨拶、毎日見る景色への感動、毎日味わう食事の喜び、、、
幸せになりたいと思うなら、何も特別のことをする必要はない。
日々、私達が生きていくうえで、何万回、何十万回、何百万回と繰り返さねばならない事柄を、ただひたむきに愛せばよい。
それだけで人生の幸福の絶対量は増える。
そしてそのことを実証するかのように、好きな食べ物について語る時、人はとても幸福そうである。
そして、もうひとつ。
「食は人生なり」
私が池波正太郎の食のエッセイが好きな一番の理由は、食とともに池波正太郎個人の思い出がふんだんに込められているからだ。
幼い頃に食べた縁日のどんどん焼き、それにまつわるテキヤのオヤジとの温かくしかしどこか危なげな交流、そして母、祖母、曾祖母との思い出、小さな手に握り締めた五十銭・・・
幼き日、父と母が離婚したことを知った担任教師が、そっと池波少年にだけ食べさせてくれたカレーライスのうまさ・・・
出征の途中で立ち寄った飛騨高山で見た冬山の光景、そしてそこで食べたチキンライス。
池波正太郎が愛した料理とは、それを作った人、出してくれた人との思い出とあいまって、ほんわりと温かい思い出に包まれている。
そして、池波正太郎が愛した店は、どこかしら「江戸の香り」を残した店ばかりだ。
池波正太郎が愛した職人の気質、誇り、こだわり、それはおそらく、自身の「作家」という稼業に賭しているものとおなじ匂いがするものなのだろう。
池波正太郎が書く「食」「店」へのこだわりは、池波正太郎の人生そのものの軌跡のように思われる。
池波正太郎がこの本を出版したのは昭和四十八年。
今を遡ることおよそ三十六年前。
池波正太郎が愛した店は、味は、江戸の香りは。
果たして今も残っているのだろうか。
食に関するエッセイは、ただひたすらに通ぶったようなものは、知識を得たいときにはまあよいとしても私個人の好みではない。
それよりも、作者の個人的な思い入れが匂い立つような、温かい湯気がほの立つようなエッセイが好みだ。
本日の収穫。
「星の王子さま」サン=テグジュペリ
「ふしぎの国のアリス」ルイス=キャロル
「絵のない絵本」アンデルセン
この三冊は実家に帰れば持っている本なのだが、”クリスマス限定カバー”という謳い文句に釣られてつい購入・・・卑怯也、出版社・・・
「老妓抄」岡本かの子
「おはん」宇野千代
これも実家で探せば以下同文・・・
なぜか無性に、明治の女の生き様を読みたくなりました。
「空気の研究」山本七平
「平凡パンチの三島由紀夫」椎根和
この二冊だけは初めて読む本で楽しみです。
本屋に行けばたくさんの新刊本が並べられている。
だけれども、残念ながら、あまり興味を惹かれる本は少ない。
だからおなじ本を繰り返し繰り返し買ってしまうのかもしれない。
古き良き時代、日本人のベル=エポックを求めて。