2009年11月11日水曜日

ちまたに雨の降るごとく


我が心にも涙ふる
かくも心ににじみ入る
この悲しみは何やらん

今朝の雨は久方ぶりに激しかったですね。
ぱらぱらの雨はここ最近もあったと思うけれど、「雨が降った!」をたっぷり実感したのは久しぶりのことだったような気がします。

雨の日は嫌いじゃない。
スーツもヒールもバッグも濡れちゃうし、髪もぼさぼさになっちゃうけれど。

雨が地面を叩く音。
視界にフィルタが一枚かかったような感覚。
レンズを通して見たときのようなかすかな歪み。

いつも見ている風景が、実は、ただ私の眼という小さく頼りない器官を通しているだけの曖昧で不確実な姿に過ぎないのだと。
見えているものがいつもまっすぐに正しく瞳に飛び込んでいるのだというのは実は錯覚に過ぎないのだと。
知ることは必ずしも不快なばかりではない。

なぜならば視覚だけでなく。
神経も、感覚も、思考も。
すべては「ただ自分はそう感じている」というだけの、錯覚に過ぎないものかもしれないのだから。

ただひたすらに、自分という器官が感じたことだけが真実。
人はそうやって自分の真実のなかで生きている。
もしその真実を他人と共有することが出来たら。
・・・・・・いや、それは決して共有することは出来ない。
だから人は「共同幻想」を抱く。

双子が見ている夢は「共同幻想」なのだろうか。
それとも本当に、双子はまったくおなじ体験を共有し、感覚を共有することが出来るのだろうか?

アンドロイドは夢を見るのか。
それはSFにおけるひとつのテーマである(あった?)が、私にとっては「双子はおなじ夢を見るか」のほうが興味深い。

それにしても。
ヴェルレーヌという詩人を偏愛しているということは決してないのだが、ヴェルレーヌがもつサンチマンタリズムはある種日本人の感覚に近いのだろうか?
私に限らず、多くの人の耳に、ヴェルレーヌのいくつかの詩はしっかりと刻まれている。
こんな雨の日は。
つい、ヴェルレーヌの詩を、意味も分からずに口ずさんでしまう。

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