2010年6月30日水曜日

全力投球

昔、サッカーが大好きだった
でもいつのまにか見なくなった
ワールドカップも、休職中の今は、友達や会社の人と熱く語り合うこともないので、なんとなく見ていなかった

昨夜、たまたま夜中に目覚めたので、後半からパラグアイ戦を見た

どちらも攻めあぐねているなという印象、なんとなく間延びした試合展開
「あ~、これはPKだな」
それにしても、JAPANは上手くなった
だって、間延びした試合をワールドカップで出来るようになったんだもの
間延びって、互いの力が拮抗していなければ出来ないよね
弱ければ一方的に攻められるし、相手のリズムに翻弄されるだけ
対等に間延びできるということは、それだけの力量があるということ

PKは時の運、、、
きっと、たぶん、肩に力が入りすぎたのだ
だって、そういう場面だもの
誰だって緊張する

フランスワールドカップ、日本が初めて本戦に出場したときのことを思い出す
あの時、戦犯、ではないけれど得点出来なかったエースが批判された
でも今回、PKを失敗した選手を非難する人はいなさそう

どちらが楽なのだろう
責められるのと、許されるのと

責められれば当然つらい、でも許されれば自分で自分を責め続ける

どちらもつらい

国を背負い、世界の大舞台へ上がるということは、そういう厳しいプレッシャーを負うということでもある
多くのスポーツ選手の真剣な眼差し、厳しい面持ち、私は仕事をしているとき、そういう顔をすることがあるだろうか?
私達日本人は、どんな場面でそんな表情を出来るのだろうか?
国を憂い、人心を憂うとき、そんな顔を出来る日本人がどれくらいいるのだろう?
願わくばスポーツの場だけでなく、そんな顔をした日本人を見たい

新しく

午前五時

明日から7月、
いろんなものが新しく変わる予感

新しい洗濯機が届いた、二回まわしていたのが一回で済む、超楽チン♪
一ヶ月居てくれた母が今週一杯で帰ってしまう、本当の意味で新しい生活がスタートする
新社長の誕生、きっと、もっともっといろんなものが変化し進化していく

いよいよ夏の予感
私の気持ちも一新しよう

新しいものに、ひるまず立ち向かっていこう
きっとそこには、想像していなかった世界が広がっているだろう

2010年6月26日土曜日

もうひとつのHappyBirthday

お気に入りのフレンチにてランチ、鶉の卵とラタトウュのアミューズ



大根と帆立の野菜サラダ、サフラン仕立て

とうもろこしのポタージュ

和牛ミンチとフォワグラのパイ包み


ガトーショコラ、洋ナシのタルト、ブルーベリーのババロア、カシスのソルベとラムレーズンのアイス

この1ヶ月は、生まれてから今までのなかで一番密接に母と暮らしたひとつきだった
過ぎてしまえばあっという間の1ヶ月だ
あと一週間もすれば、母は帰ってしまう
そうしたらまた、長い間、母に会うことはない

母は私になにも望まない
母はただただ、私に与えることだけを望んでいる

もう充分だよ、もうおなかいっぱいだよ、自分の楽しいこと、すこしはしなよ

いくら言っても、母には届かない
母はただただ、私に与えようとだけする

いったいどうすれば、この、ただ与えるだけの母にお返しをすることが出来るのだろう
どう考えても、母のために私がしてあげられることが思いつかない

私といると母は自分の欲がなくなる
すべて私が優先される
もうそんなことしなくったっていいと、いくら言っても

すべての母親は聖母なんだと
母を見ていて、思った
無償の愛情とはこういうものなのだと
母を見ていて、知った

来月、還暦を迎える母
お祝いをしようと言っても、プレゼントを贈ると言っても、なにもいらないと言う、むしろするなと言う
自分のことは後回しにする母の笑顔が見たくて、母を食事に招待した
母は喜んでくれた
ひとつひとつのお料理に感激し、こんなに美味しいもの食べたことないと言い、私にありがとうと言いながら、甘いものが苦手な母はデザートも頑張って食べようとしてくれた
そんな母を見ながらふと思った
私の喜ぶ顔を見たくて、母はこんなに感激してくれたんじゃないだろうか

いつになったら私は母にお返しできるのだろう
・・・・・・きっと、ずっと、貰いっぱなしになるんだろうな

お母さん、ありがとう

いつか

一ヶ月目の朝の空、おめでとう


君が大人になったとき、
なにを愛するだろうか?
なにを悲しむだろうか?
なにを憎み、なにに傷つき、なにを憂い、なにを喜び、なにを楽しむのだろうか

まだ君の人生ははじまったばかりなのに
私は君の「いつか」を思い描く

いつか君が小学生になったら
いつか君が高校生になったら
いつか君が成人したら
いつか君が大人になったら

「いつかの君」に思いを馳せる

君に望むことはなにもない
君にはただ命を与えただけ
それ以外に君にしてあげられることは、本当はなにもない
ここからさきの君の人生は、君が選び、君の足で歩んでゆくもの
だから君になにかを望んだりはしない

だけど

「いつかの君」を勝手に想像するくらい、想像して遊ぶくらい、していいだろうか

いつか君が人を愛するようになったら、
いつか君が我が子を自分の手に抱く日がきたら、
きっと私の矛盾も受け入れてくれるだろう

いつか君が大人になったら・・・
思い描かずにはいられない

君は希望と未来をそのちいさな身体いっぱいに抱えて生まれてきた

2010年6月23日水曜日

ただ美しく





ただ美しく
ただ慰められる

自然にはその力がある

美しい色合い、微妙な、絶妙な
人には創れない輝き

同じ感激をともに味わいたい
瞬間の美をともに感じたい

未完成

人間は未完成で生まれてくる

放っておかれると簡単に死んでしまう
かよわくてはかない、ちいさくてたよりなげな生き物

だから、手がかかる
だから、愛情が必要
だから、本能が無条件に反応する

君は眠りにつく方法をしらない
君はひとりで身体を起こすことをしらない
自分の手が自分の手であることすらしらない
自分で自分の髪をひっぱって、その痛みに泣き出す君
君の手が髪をひっぱっているから痛くって、その手を離せばすぐに痛くなくなるのに、君はそんなことも知らない

なにも知らない
ただ、泣くことと、食べることと、身体の生理的な機能以外はなにもしらない
ひとつひとつ、これから生きていくすべをおぼえていかなくてはならない
それはとてつもなく遠い道のりのようにも思えるし、あっという間のようにも思える
難しいようで、簡単なようで
私はどうやってそれを身につけてきたのだろうか

まっしろな君
無垢な君

あるのはただ、至上の愛しさのみ
それだけで充分
それだけで君の虜
私にしがみつく、君の小さな手
それだけで君を愛する理由は充分

2010年6月22日火曜日

こえ

夕景、歩道橋から

流れ

何が出来るのかな

まぶしい

伝えたい、ことがある
だからこえがある

こえが届かない
悲しくなる

こえが聞こえない
寂しくなる

言葉を伝えるためのこえ
思いを伝えるためのこえ

こえが聞きたくなる

2010年6月19日土曜日

回復中

すこしずつ揃えているお気に入りのデザイン、今日はおニューのティーカップでTeaTime


いつもと違う視線の高さ、自分本来の視線
ただの風景も新鮮で嬉しい



以前履いていたジーンズを履き、以前履いていたピンヒールのサンダルを履き、ひさしぶりに散歩に出た。
二時間ばかり、駅前までのささやかな散歩だが、ここ一ヶ月ほど外に出ることがほとんどなかった私にとってはちょっとした冒険だった。

毎日通っていた駅までの道。
なんだかひどく懐かしい。
工事中だった病院が完成してオープンしている。
一ヶ月が過ぎたんだと、改めて思う。

駅前のお気に入りの雑貨屋、本屋、スーパー。
久しぶりに行くと、買い物欲が止まらなくなり、ついつい夢中になってしまう。

当たり前のことを当たり前にできることがどんなに素敵なことか。

以前履いていたピンヒールのサンダル。
たった二時間で足がずいぶん疲れてしまったことに気がつく。
一ヶ月が過ぎたんだなと。
改めて思った。

理由。

母が買ってきてくれたハイビスカスが咲いた
綺麗な赤い花、大好きな南国の香り


母は、仕事がひと段落つくと珈琲(またはアルコール)を片手に煙草を実に美味しそうに吸う。
母がベランダで煙草を吸っているのを見ると、ふと、十ヶ月前に止めて、それ以来吸いたいと思わなかった、このまま止められるかなと思っていた煙草を吸いたくなってしまった。
煙の匂いは今でも鼻につく。
味も忘れた。
だけれども。

仕事と仕事の合間に、ふと自分を取り戻したくなった、または頭のなかを切り替えたくなったときの煙草の旨さ。
それは味わいがではない、その時間が旨いのだ。
そしてアルコールが入ったときに、ふと煙草に火をつける瞬間。
ゆらっと炎があがり、煙が立ち上る。

私が煙草を吸っていた理由を思い出した。
煙草がもたらすほんの数分の特別な空間。
それが好きで、私は煙草を吸っていたのだ。

せっかく止めたのにな、という私と。
自分の人生を豊かに彩るアイテムじゃないか、と思う私。
どちらの私が勝つかは、あと数ヵ月後に委ねよう。

2010年6月17日木曜日

魅惑、誘惑

某コージー◎ーナー、世界のカップデザート!
これが期待以上に美味しくて
ポルトガルのミルクパルフェ、カスタードと生クリームがめちゃ甘でLOVE
また食べたいな
五個くらい一気にいけそうなのですが、いったらアチラの世界から返ってこられなさそう・・・



節制と暴走は表裏一体

ここ十ヶ月ほど、食事管理をしている
というか、せざるを得ない状況になったので、致し方なくやっている

食事については、もともとが粗食なのでたいして辛くない、らくらくクリア
問題は、「甘味」
これぞ最大の敵!?

好きなものっていうのは、結局我慢できないものなんだな~というのが実感
あまり抑えつけると、時々、暴走してしまう(笑)
え~と、まさに今、暴走してます(笑)
あ~、きなこまめ美味しい♪

今まで抑えていたものが、猛烈に逆流したくなる
胃袋だか舌だかの生理的な欲求と、無理矢理に抑えていたものから解放されたいという精神的な欲求とのふたつが相まって、大変な奔流となって突如欲望が押し寄せてくるわけです
そうなると、もう大変!
やめられない止まらないはカルビーのかっぱえびせんですが
私の甘味欲も止まらないわけです

う~ん
ものすごい罪悪感を伴うんですが、美味しいものは美味しい、食べたいものは食べたい

ま、物事はなんでもバランスなんですけどね
だから適量で止められるなら食べてもいいんですけどね
甘味に関しては適量で止められず、そこなしなので
開けたパッケージぜんぶ食べ終えて、食べたくってももうないですよ~って状態に達しないと止まらない
恐るべし、甘味・・・
いやいや、恐るべしは私だった(苦笑)

隙間

隙間を埋めるために、花を買おう
隙間を埋めるために、歌を歌おう
隙間を埋めるために、日記を書こう
隙間を埋めるために、隙間を埋めるために・・・

隙間を埋めるために生きているんじゃない

生きていたら、もれることも、足りないことも、多すぎることもあったりする。
そのアンバランスさが隙間を生んでいるだけ。

だからその隙間は。
失敗の証かもしれない。
上手くいかなかった事の積み重ねられたものかもしれない。
だけれども、私が一生懸命生きてきた形をしている。
埋める必要はない、誇るべき隙間。

2010年6月16日水曜日

夕景




毎日通勤していたとき。
私は空が好きだった。
雲が好きだった。

なかなかおうちから出られなくなった今。
籠の鳥のような生活でも、空は見られる。雲は見える。

刻一刻と姿を変え、同じ紋様は二度と編まない。

2010年6月14日月曜日

祝福。

頂いたお祝い、ステキなプレゼント!


寿ぎ、慶び、祝福、お祝い

目出度きこと、善きこと

そこには翳がない
温かさとか優しさとか愛しさとか慈しみとか、そういったものしかない
誰もが笑顔になり
誰もが優しい顔になり
誰もが心から湧きあがる本当の気持ちを素直に言葉にする

そこには善しかない
人間の性、善なり、
そう思う瞬間

「ありがとう」
私が二番目に好きな言葉
一番好きな言葉は、「好き」という言葉

みんな、ありがとう
幸せです

2010年6月13日日曜日

恐れ、畏れ

恐いものがある。
それは、死ぬこと、私が、誰かが。

ほんの数秒前まで、呼吸していた。
ほんの数時間前まで、笑っていた。

だのに、もう、笑わない、語らない、抱きしめてくれない。
その境界線の前後で違うものはたったひとつ。
身体の機能が動いているか、いないか、たったそれだけのこと。

なぜ身体の機能が失われて、心まで無くなってしまうのか。
昨日まで、さっきまで、そこにあったはずの「心」は死とともにいったいどこへ行ってしまうのだろう。

死が恐い。
恐いのは、心を連れ去ってしまうから。
私と言う人間を他者から隔て区別していた「心」が、私が私である証の「心」が、あなたがあなたである証の「心」がどこにもいなくなってしまうから。

死を恐れる。
生を愛するが故に。
自身の生を、あなたの生を。
あなたへの愛着が深くなればなるほど、死への恐れも、、、畏れも、増していく。

死を恐れることのできる人は、生を愛することができる人。

2010年6月12日土曜日

継がれる

「ここはセーヌ川河畔か!?」と思った、ビーチパラソル















ランチタイムはいつも行列、公園を目の前にした最高のロケーション





アオリイカをバジルで


豚肉と豆のスパゲッティ、トマトソース好き


パンナコッタ


母と語り合う。
母と過ごす。

私の人生の約半分は両親と過ごした時間。
約半分は両親と過ごさなかった時間。

母とひとつところに暮らすのは十年ぶり。

母は、心配するのが仕事。
母だけじゃなく父もそうなのだけれど、母の心配はとても具体的で身近だ。

風邪をひいていないか。
食事をちゃんと取っているのか。

おおよそ、母の心配事というのは身体と健康に関わること。

十年ぶりに暮らす母はやっぱり心配性で。
過剰なくらいに心配性で。
母の気持ちがすこしはわかるようになったはずの私は、母の前ではやっぱり子どもにかえってしまい。
心配性の母に心配をさせてしまうことが申し訳なく。
そうして苛立って母に八つ当たり。

・・・ちっとも成長していない。

そうして。
気がつけば私も、母とおなじことで一喜一憂していた。

しょんぼりした母の背中に、言えない「ごめんなさい」。
せめて罪滅ぼしに、母が作ってくれたおにぎりを一生懸命食べる。
「ほら、ちゃんと食べたよ、私、美味しかったよ」と、母に言いたい私。

いつまで経っても、いくつになっても、母の前では子どもにかえる。

『たしかなこと』

CMでもお馴染みの、小田和正の歌。
あのフレーズを聴いただけで涙がじんわり溢れてきそう。

誰でも心のなかに大事な人がいる。
家族、恋人、友人、恩人。
小田和正の歌は、大事な人への思いを、すごく素直に綴っている。
だから、たくさんの人が共感できるのだと思う。

伝えたくて、でもどうやって表現していいかわからなかったこと。
それを、言葉にしてくれる。

♪時を越えて君を愛せるか ほんとうに君を守れるか
空を見て考えてた 君のために今何ができるか

忘れないでどんな時も きっとそばにいるから
そのために僕らは この場所で
同じ風に吹かれて 同じ時を生きてるんだ♪

守りたい、と思う気持ちはなによりも強い。
自分よりも守りたいものを手にしたとき、人はずっとずっと強くなれる。

2010年6月11日金曜日

終わりなき旅

ふと、数年前、だいぶ前にリリースされたミスチルのベスト盤を聴いた。
ミスチルは好きだけど猛烈に好きってほどでもなかった。
そのベスト盤もミスチル好きの友人がくれたものだった。

でも。

聴いていると涙が止まらなくなった。
あぁ、いい曲ばっかりだなって、改めて思った。

若いとき、ミスチルの曲・・・というか、歌詞はすこし苦しかった。
すごく言い得て妙というか。
心の痛い部分に直接触れてくるので、聴くのが怖かった。
痛みを認めることが怖かったので。
自分の弱さを知りたくなかったので。
強くありたいと願っていたので。
前しか見ていたくなかったので。

けどこの年になって。
自分の弱さを受け入れられるようになったのかなと思う。
弱い自分も、たしかにいる。
その弱さも含めて自分を好きになれたら。
またなにかが変わるのかもしれない。

ミスチルは良い曲がたくさんあるので、そのときの心境で好きな曲が変わるけど。
今、一番好きな曲は「終わりなき旅」

♪閉ざされたドアの向こうに 新しい何かが待っていて
きっときっとって 君を動かしてる
いいことばかりでは無いさ でも次の扉をノックしよう
もっと素晴しいはずの自分を探して

胸に抱え込んだ迷いが プラスの力に変わるように
いつも今日だって僕らは動いてる
嫌な事ばかりではないさ さあ次の扉をノックしよう
もっと大きなはずの自分を探す 終わりなき旅♪

2010年6月9日水曜日

具体性

徒然なる寂しさを埋めるために、母が買ってきてくれた
マリーゴールドの黄色は明るくて、心が晴れる
そして母の愛に感謝


具体的に列挙していくと、物事は分かりやすい。
具体性が増すと、他者からの共感が得られやすい。
概して、納得感があるとか、説得力が増すとかは、そういうことなのだと思う。

そして。
なによりも強烈な具体性は。
今、目の前にいる、君という存在。
見て、触れて、感じることが出来る実体。

「存在」こそ確からしい圧倒的な具体性。

2010年6月8日火曜日

たくさん

たくさん泣いた。
たくさん笑った。
たくさん感動した。
たくさん感謝した。
たくさん知った。
たくさん考えた。
たくさん感じた。

どうやら君といると「たくさん」という言葉をたくさん使うみたいだ。

生々流転

閉ざされたドアのこちら側にいると思っていた。
それはただの勘違いだった。

ドアの鍵はいつでも開いている。
ノブを回すかどうか、それは自分に委ねられている。

座している。
それでも地球は回っている。
日々は流れ、人は変わり、私も変わる。

ずっとおなじことばかりが続くわけじゃない。
私という要素が変化しなくとも、私の隣にある変化が状況を変えていく。

流れていく万物を眺め。
万物とともに流れていく。

素晴らしき哉人生。
恐れることはなにもない。
怯えることもない。
ただたゆまぬ流れに従って、いつか途切れるときまで、流れてゆけばいい。
行き着く先に何があるのか、その瞬間になるまでどうせわからないのだから。

最後には「死」あるのみ。
それは極めて単純明快な事柄。
その一歩手前にあるもの、それを「人生」と呼ぶのだと思う。

2010年6月6日日曜日

ウルトラの母

夕刻、綺麗な空

清々しい空気


限定された景色、それでも心地よい、ほんのわずかな緑、それも癒し


お久しぶりです(笑)
本日のデザートは、クリームあんみつ!
バニラアイスの溶けが早くて慌てて食べちゃう、暑くなってきたんだね~



もし私がウルトラの母だったら。
君はウルトラマンだね。

もし私がのび太くんのママだったら。
君はのび太くんだね。

繋がっているので。
君の、髪も爪もすべすべのほっぺも小さなお手々も足も、ぜんぶの細胞が私から出来ているので。

もし私がマルコの母だったら。
君はマルコだね。

そんな当たり前のことが、とんでもなく嬉しい。
この感情ってなんなんだろう。
君に聞けば、その答えが分かるのかな。

2010年6月5日土曜日

ひかり









久方のひかりのどけき春の日にしづ心無く花の散るらん

人は太陽の日差しなしには生きていけない、と思った。

初夏の日差しのなか。
トラックが行き来する。
排気ガスでいっぱいの往来。
それでも、久しぶりの日差しが心地よかった。

だって。
どっちみち、私が生まれたときから、完全な自然なんてなかった。
多少の有害物質と一緒に育ってきたようなものだから。
ある意味、私にとっての『完璧な自然』はこの状態なのかもしれない。

久方ぶりの散歩。
往復10分程度の、ささやかな日差し。

太陽の光がなければ、人は生きていけないと思った。

2010年6月4日金曜日

never forget

ステキな贈り物


新しい世界の扉を開けて、羽ばたいてゆく為の翼を手に入れた気がした


状況が変われば。
環境が変われば。
時間が経てば。
いろんなものが変わっていく。
人の心も。

どんなに輝いた季節を過ごしたとしても、忘れてゆく人もいる。
変わっていく心もある。
人は忘れてゆく、変わってゆくことで生きているから。
失われつつあるもの、失われてしまったものを嘆くべきじゃない。

だけどそのなかでほんのわずか、変わらないものが、人が、心がある。
それが私の宝物。

リボンをほどいた瞬間の感激をずっと忘れないでしょう。
ありがとう。

2010年6月3日木曜日

初スイカ。



今年初のスイカ。

スイカといえば思い出さずにはいられないのは、きっと、「小学生時代の夏」っていう人が多いんじゃないかなって、、、勝手に思っています。

小学生の頃は本当によくスイカを食べました。
夏になれば毎日と言っていいほど、スイカが冷蔵庫に入っていました。

でも、私にとって一番のスイカの思い出は・・・

宿題を最終日ぎりぎりまでやらないタイプ。
当然一日で終わる量じゃない。
かといってぜんぶを諦めるほど度胸もない。
だから、問題集とか、作文とか、とりあえず出来そうなものから手をつける。
自由研究や工作はいまさらジローで、諦めよう・・・

そういうわけで、家族が寝静まった深夜まで、泣く泣く問題集をやる羽目に・・・
ようやく問題集や作文が終わった明け方、テーブルのうえに置かれていたスイカをもぐもぐと貪る・・・
なんだかちょっぴり泣けてくる。
なんで泣けてくるのか・・・深夜にひとり宿題に追われて、毎度のことだが「やっておけばよかった・・・」という後悔にかられ・・・
一人スイカを貪るわが身の情けなさ、切なさよ・・・

というわけで、小学生以来、あんまりスイカを食べなくなりました。
スイカを見ると、あのしょっぱい夏の日の思い出が甦ってくるので(笑)

でももう、解禁してもいいかな。
だってスイカ、美味しいんだもん。