2009年10月29日木曜日

隙間


誰にでも隙間がある。

その隙間は時々刻々形を変える。
似たような形をしているけれど、でもまったくおなじではない。
だから、その隙間に嵌まるものも、その時々で違った形をしている。

今日の私は。
今日のあなたは。
いったいどんな形の隙間を抱えていたのだろう。

そして今日のあなたの隙間は。
どんな形で埋められたのだろう。

隙間があるから。
埋めてくれるものがあることに気がつく。

隙間があるから。
ひとはひとりでは生きてゆけないと知ることができた。

2009年10月28日水曜日

無。


心のなかをからっぽにして。
空を見上げる。

心は反射鏡。

美しい景色を見れば、美しい輝きを返す。

2009年10月27日火曜日

瞬間


ブログを書くようになってよかったこと。

ブログに載せる写真を撮ろうと、ふとした瞬間に足を止めるようになった。
これまでの私だったら気づかずに通り過ぎた瞬間、或いは気持ちのどこかにわずかに触れて、でも足を止めるほどのこともなく過ぎ去っていた、そういった一瞬に、今の私は立ち止まる。

私が好きな瞬間。
私を瞬間捉えたなにか。

それはほんの一瞬の空の動き。
雲の形。
木々の隙間から漏れる光彩。
雨に濡れたアスファルトのわずかな湿り気。
どこまでも続いていくかのような道。
風に翻る国旗。
鮮やかな色をひっそりとのせた花弁。

たったそれだけのもの。

たったそれだけのものが私の心を作っている。
そのことに気づいた、一瞬間。

足を止めた私が手に入れた、大切なもの、私のかけら達。

2009年10月26日月曜日

贅沢な生き物。


毎日がこともなく過ぎていく。
ことに、感謝を忘れる私が、時々いる。

毎日がとりたてて格別のこともなく過ぎていく。
大きな不幸がないこと、への、感謝を忘れている私がいる。

「感謝をしなさい」
「感謝をしなければ」

人間は感謝を知らない生き物。
だからきっと「感謝」という言葉が生まれたのだろう。

いつもいつも、四六時中、寝ても醒めても。
感謝をしようと思えば、身の回りのすべてに感謝することが出来る。
そのくらい人間は、依存しなければ生きていけない生き物だ。
だけれど、もし身の回りのすべてに四六時中、二十四時間感謝し続けていたらきっと息が詰まる。

なので、人間は「忘れる」ことが出来る生き物になったのだと思う。

今日の出来事、良かったこともすこし悲しくなったことも。
どちらも人間は忘れてしまう。
だから明日も生きていける。

良かったことも悪かったことも。
忘れて、時々ふと思い出す。
だから人間に「感謝」という言葉が授けられたのかもしれない。
忘れていたことにほんのすこし感じる気まずさと気恥ずかしさのために。

2009年10月25日日曜日

「かんじんなことは目に見えない」


「こころで見なくちゃね」


有名な「星の王子さま」の一節です。

星の王子さまというのは非常に難しい童話だと思います。
アフォリズムに溢れ、人生の哀歓に溢れ、子どもにとってはすこしストレートではない表現で描かれた物語。
この物語が「大人のために書かれた(描かれた)童話」と言われる所以でしょう。

私はこの本をある程度大人になってから・・・高校生時代に初めて手に取ったような記憶があります。
象を飲んで動けなくなったウワバミの絵。
純粋ではない大人にはそれがなんだか分からない、帽子の絵としか見えない。
そんな出来事を忘れて大人になっていた僕の目の前に現れた小さな星の王子さま。
彼だけはそれがひとめで「象を飲んで動けなくなったウワバミの絵」だと分かってくれた。
それから、小さな王子さまは僕の大切な友達になった。
当時、相当にヒネた文学少女だった私は、このエピソードにノックアウトされ、作者のフランス人らしいエスプリの効いたアフォリズムに惹かれました。

しかしそれから何年も経って、箱根の星の王子さまミュージアムに行ったときに、初めて、物語の中に出てくる高慢で我が儘、しかし王子さまの大切なバラの花が、作者サン=テグジュペリの妻の投影であることを知り、この作品は、砂漠で飛行郵便夫を務めるサンデグジュペリの心のうちを綴った・・・それはある意味では創作であり、ある意味ではまったく創作でなく彼の心の内奥を小さな王子さまの姿を借りて吐露した真実の物語だと知り、私のこの物語への思いはいっそう深まりました。

この物語は子どもの心を忘れた大人へ、子どもの心を思い起こさせる作品だ・・・と、紹介されることがままあります。
しかし私には、この作品は、大人になりきれないままに大人になってしまった孤独を癒したい人のための作品ではないかとしばしば思えます。

この作品のテーマは「孤独」

大人は孤独です。
作品に登場するステレオタイプな7人の大人達。
これを童話として捉えるのならば、それはありふれた警句のように見える。
しかし、その滑稽な姿に皮肉を感じながら、それでもひとりぽっちで生きていくしかない彼らの姿に、私はどこか強烈な孤独を感じてしまう。
大人であることの、大人になりきれていないことの哀しみ。
滑稽な大人たちも、主人公である僕も、つねに「本当の僕の心を分かってくれる誰か」を求めているように思えてなりません。

本当の子どもは、孤独ではありません。
彼らには常に「子どもだけの世界」があり、その世界のなかで彼らの自由な想像力によって作り上げられた独特の世界を共有していつでも夢の世界に羽ばたけるのです。
理解を得られず、理解してくれる友を求めて孤独を感じるのは、実は大人の感性ではないかと。
私はそういう風に思うのです。

五千ものバラ。
でもそのどれも「ぼくのバラじゃない」
ぼくにとってたったひとつのバラであることの意味。
その意味を見出したとき、初めて人は、孤独ではなくなるのかもしれません。

2009年10月21日水曜日

空。


どうやら私は、空が好きらしい。
気がつけば空ばかりを撮っていた。

毎日、空を見上げる。
雲を見る。
だから雨の日は、それはそれで味わいはあるのだけれど、すこし寂しい気がする。

どんな雲も、どんな青も。
おなじカタチは二度と現れない。
瞬間瞬間でふっと潔くカタチを変えていく、一度きり、もう二度と逢えない。

川も、海も。本当は人でさえ。
一瞬たりともまったくおなじでは在り得ない。
だけど川も海も。
今、私が生きている場所からはすこし遠くて。
でも空は、見上げればいつも私のすぐ真上にいるから。

だから私は毎日空を見上げる。

この雲は、もう二度と見ることのない雲。

本当は私も。
そしてあなたも。
今日がはじめまして、明日も、明後日も、はじめまして。
そんな風に毎日、傍にいてくれる人達に逢えたら。
今日もありがとう、明日も、明後日も。
ありがとう。

2009年10月20日火曜日

電線の空。


気持ちのよい秋晴れの朝。
ふと空を見上げた。
私の目線をたくさんの電線が横切った。
これが、私の空。

電柱を地下に埋めるのだと。
はじめに聞いたときは、なんて馬鹿馬鹿しいのだろうと思った。
そのころの私の空は、遮るものひとつない、広い広い空だったから。

でもあれから何年経っても、電柱は地下深くには埋まらず、我が物顔で地上を占拠している。
そして今、私の目線にはたくさんの電線。

200年の昔、1000年の昔。
昔の人達が見た空はきっとこんなではなかっただろう。

だけど電柱が地中深く姿を隠すようなときがもし本当に来たとしても。
その空は、200年前の空ではなく、1000年昔の空でもない。

この電線は、わたし達のライフライン。
人類の進歩の証、わたし達の日常の標(しるし)。
たしかに視線を遮って、たしかに広々とした空を断絶してしまうけれど、でも。

わたし達がこれまで歩んできた道のりのひとつの証がこの電線なのだとしたら。
いつかこの電線が消えてなくなることもまた、わたし達が歩んでゆく道のり。

世界はどんな風に変わっていくのだろう。
たとえ線が消えても遠い昔とは異なった風景が広がる、50年先、100年先、その先のもっと未来は、いったいどんなカタチをしているのだろうか。

そのカタチを見てみたい。
ふと、そんなことを思った秋の空。

2009年10月19日月曜日

「アマゾネスのように」再々再々???読


今年5月にすい臓ガンで亡くなった中島梓さん(栗本薫さん)が、18年前に乳ガンを患った時に書かれたこの「アマゾネスのように」は、初版が92年であったから、それから17年の間、私は折りに触れ、この本を何度も何度も読み返した。

誤解されるのが怖いので先に言っておくが、この本は決して真面目な闘病日記ではない。
どちらかといえば、著者の日常生活のばたばたが描かれており、中島梓さん(栗本薫さん)という人のファンでなければ読んでもすこしもためにならない、面白くない本だと、熱烈なファンだからこそ断言しよう。

が、私はこの本が大好きだ。
今日の食事はなんだった、だんなさんがこうだったという、日常のとりとめもない出来事の記録の合間に、ふと作家・栗本薫が顔を覗かせる。
それが、たまらなく好きなのだ。

彼女は言う。
乳ガンで片方の乳房を失った私は、その昔、最強を誇る女戦士だけの国に生まれ、強くなるために膨らんできた乳房の片側を切り落とし、闘ったアマゾネスなのだ、と。
そして言う、私達人間は、男も女も、全員がアマゾネスとして生きることが出来る、と。
生きることに貪欲で、強くありたいと願う。
弱いからこそ、万が一、いざというときに毅然と振舞えるかどうか。
その瞬間を毅然としていられる自分でありたい、あって欲しい。

強くありたい。
生を力強く生きたい。
生きることが好きだ。

何度も繰り返される、彼女の生命賛歌がとても好きだ。
それは彼女の最も得意とするところであり、彼女の最大の魅力であると思う。

生涯を通じて、彼女は「エンターティメント作家」であった。
高尚な文学など自分には書けない、書かなくていいと言っていた。
飢えた子どもの前で『文学』は有効か、それは彼女の命題であった。
その答えは、飢えた子どもの前で『文学』はまったく有効ではない、しかし、『物語』はその飢えをほんの一瞬だけ忘れさせる力を持っている。

生きること、書くこと、表現すること、命を愛すること。
身体中に情熱をみなぎらせ、生命を謳歌する。
そういう人に、私は惹きつけられてやまない。
早過ぎる幕引きではあったが、死のその最期の瞬間、彼女自身がずっとそう語り続けてきたように「私は生きた」と言って旅立っていかれたのであって欲しいと思う。

2009年10月18日日曜日

「人生は選択の連続だ。」


と、ある人が云った。

なるほど、と思う。
そういえば今朝からこの時間になるまで、私はいったいどれだけのことを選択しただろう?

例えば、朝食になにを取るか?
例えば、先に水を飲むのか、シャワーを浴びるのか?
ジーンズを履くのか、ワンピースにするのか?
外出するのか、それとも家で借りてきたDVDを見ながらのんびり過ごすのか。
数え上げれば数限りなく、私達は毎日、選択しながら生きている。

自覚することのない多くの選択をしながら、私達は、「自分の人生」を創りあげていくのだ。

すべてを自覚して選択すれば発狂しそうになるだろう。
だから私達は日常の諸々のことを無意識のうちに選択する。

だけど、時々・・・・・・
無意識に選択しているものに「自己の意思」を見て、はっとする。
個性とは、無意識の選択における近似的指向性によって形づくられる幻影なのかもしれない。

女子のテンション


絶対的に女子のテンションが上がる言葉がある。

それは「カワイイ!!」

女子は「カワイイ」ものが好きだ。
傍から見ていると「?」と思うようなものでも、本人にとって「カワイイ」であればオールオッケー。
「カワイイ!」と呟いた瞬間から女子のテンションはどんどん上がっていく。

かくいうテケポンも「カワイイもの」好き。
しかも、カワイイもの好きのうちでも若干危険なゾーン、キャラクター好きに足を踏み入れている。
はっきり言って、ある一定年齢以上の女子が子どもじみたキャラクターを見て「カワイ~イ!!」と呟き、あまつさえ自分の身の回りをそういったグッズで埋め尽くしている姿には痛々しさを感じる。
いや、自覚はしている。
してはいるが・・・・・・止められないのがキャラクターものの恐ろしいところである。

特定のキャラクターで好きなものもあるが、無名のキャラクター、雑貨屋さんなどで明らかに小学校・中学校の低年齢女児を意識して、作られては消え、作られては消えしていくようなそんなキャラクター達の中にも、時折テケポンの心を捉えて離さないものがある。
彼らとの出会いは刹那的だ。
まさしく一期一会、今日このときの出会いを最後に、彼らと再び邂逅することはないかもしれない。
彼らは、どの雑貨屋にも等しく置いてあるわけでもなく、ディズニーストアやサンリオショップなど大手メーカーに支えられているわけでもない。
どこの誰が作ったのか、どのメーカーが作ったのか、出生出自も、今後継続してグッズが作成されるのかも定かではない儚いキャラクター達なのだ。

さて。
最近テケポンの心にヒットしたのは、このマトリーノちゃん(と呼ぶのだろうか?最近、この手のショップではマトリョーシカをパロった商品が密かなブームのようなので、その流れではないかと見ている)。
マトリーノちゃんは、ランチグッズがメイン商品らしい。(というよりそれしかない)
ステーショナリーならテケポンにも日常的に使用する機会が多い。
しかしランチグッズとは・・・・・・

マトリーノちゃんの前で悩みこむこと30分。
テケポンはランチは外食派なんだよね・・・というか、忙しい朝からお弁当作ってる時間ないんだよね・・・。

いや、待てよ!
これを機会にお弁当派に生まれ変わることが出来るのではないだろうか!?
最近、太り始めてきたような気がする・・・
先日の健康診断で初のC判定を頂いてから、生活習慣、特に食習慣が気になって気になって仕方がない・・・

そういうわけで、「カワイイ!」でテンションを上げ、一気に「安心の老後生活」まで辿りついたテケポン。
ランチボックスを購入し、本日からついにお弁当デビュー!!
問題は「果たして継続できるのだろうか!?」というところか(笑)

ちなみに、女子のテンションが無条件に上がる最強の言葉はなにかご存知だろうか。
それは・・・・・・
「欲し~~い!!」
である。

2009年10月17日土曜日

受信。


なにかを受け取ること。
なにかを受け止めること。

いろんなものが溢れかえる。
だから、「受信」することがとても重要。
そしてとても難しい。

どんなものでも、まっすぐに、混じりっけなく。
受信していける自分でありたい。

人間は雑多な生き物だから。
雑多なことそのこと自体は罪ではない。
だけれど、雑多であることを自覚しないことは罪だと思う。

自覚、それは、人間を考える葦足らしめる最初の第一歩なのかもしれない。

どんなものでも、あるがままに、素直に、真正面から。
受信していける自分になりたい。

2009年10月16日金曜日

空白の1ページ。


自分の好きなもの、なにを書いて(描いて)もいいよと言われたら。
私はきっと、困ってしまうに違いない。

空白の1ページ。
好きな色で塗りつぶしていいよと言われたら。
私は何色を塗るだろう。

「自由にしていい」

そう言われると、案外「自由」は難しいと感じてしまう私がいる。

でも、もう一度。

自由に色を塗るとしたら。
私は青い色を選ぶだろう。
コバルトブルーの鮮やかな青。
それは、空の色。

一度ではダメで、二度でもダメで。
でも三度目には大丈夫かもしれない、四度目には、五度目には。

心が自由になる訓練をしてみようと思った。

2009年10月14日水曜日

中くらい。


いろんな一日がある。
最高潮の日もあれば、絶不調の日もある。

私が好きな一日は、「まぁまぁ中くらいの日」。
ま、もちろん、絶好調ノリノリの日が一番好きなんだけれど。
まぁまぁ中くらいの日は、実はなかなか捨てがたい一日なのだ。

そうだなぁ、例えて言うなら、それは、コロッケの影に隠れていたえんどう豆にあったときの気分。

「え?あれ?なんでこんなところにえんどう豆?
よくわかんないけど、入ってたんだ。
えんどう豆って大好きなんだよね、ラッキ☆」

ちなみに絶好調ノリノリの日だと。

「うっそ!コロッケってジャガイモコロッケだけだと思ってたら
かにクリームコロッケも入ってる~!
めっちゃラッキー♪」

さらにちなみに絶不調の日だと。

「は!?なにこれ、コロッケだと思ったら白身魚のフライじゃん。
魚フライも好きだけど、今日はコロッケ食べたかったのにぃ~」

と、こんな具合に定義づけされるのです。

ささやかな幸せが思わぬところから降ってくる。
それはちょうどえんどう豆一粒分くらいの幸せ。
そのささやかさ加減が控え目で、なんとなくほんのり幸せ気分。

それが、まぁまぁ中くらいの一日。
今日も、そんな一日。

ありがとう。

2009年10月13日火曜日

本日最終日!


なにかというと・・・百貨店デパ地下、特設コーナーです。
その名も「鎌倉カスター」!!
ふっわふわのスポンジケーキのなかにふんわりクリーム入り。
スポンジもクリームもふわふわで柔らかくて、かる~い口当たり。
二個でも三個でも四個でもいけてしまいそうなリスキィなおやつ。

迷った。悩んだ。どうしよう・・・。

でも「本日最終日」なんだよね。
でも「限定秋味マロンクリーム」なんだよね。
でも「鎌倉」って我が家から遠いんだよね。

というわけで、「日本人は限定品に弱いですネ」(by昨日テレビで見たリヤドロの社長さん?)
購入してきました♪
そしてもちろん早速いただきました♪

嗚呼、美味しい・・・
一日の疲れを癒してくれる甘味です♪

大学時代からお気に入りのお料理(お菓子作り)の本があります。
その名も「イギリスのお話はおいしい。」

イギリスの様々なお話・・・不思議の国のアリス、ピーターラビット、くまのプーさん、パディントンにメアリーポピンズ・・・
そういった、子どものころに親しくした物語の主人公達が
「さあ、じゃあそろそろお茶の時間とするか!」
といそいそとティータイムの準備を始めた、そのテーブルの上をとりどりに飾っていたあのおやつ達のレシピ集なのです。

絵本で見るのとはまた違った色鮮やかなお料理の写真。
あの時、アリスが帽子屋さん達と食べたバタつきパンはこんなにもこんがり美味しそうだったんだ!

見ているだけで幸せになれるこの一冊。
秋の日のティータイムのお供にぴったりです。

朝の日差しもギラギラ真夏の眩しさから、どこか柔らかさをふくんだ光に衣替えですね。

2009年10月12日月曜日

秋の日のヴィオロンの溜息の・・・


身に沁みて ひたぶるにうら悲し

ヴェルレーヌの有名な「落葉」の一節です。
秋の公園を散歩していると、ふとそのフレーズが思い浮かぶ。
ヴェルレーヌの詩もさることながら、これを訳した上田敏の日本語の感性がすばらしく心に残ります。

でも、ヴェルレーヌが読んだ季節はもうすこし秋が深まった頃でしょうか?
木々が黄色く色づく頃。
秋ももうすぐそこまで来ていますね。

水面に映る景色。
風もなく、なんのさざ波も立たぬ静けさだからこその水鏡は、見つめていると心が澄んでいく。

秋には静けさがよく似合う。
静けさには無がよく似合う。

秋の日、あたたかい陽だまりを歩きながら感じるのはただただ自然の気配。
すこし肌寒くなってきた風、やわらかい草木の香り、水の匂い。
感覚を解放すれば、私と自然は一体になれる。
錯覚が心地よい。

2009年10月11日日曜日

太郎さんが好きだ!


岡本太郎が好きだ。

作品が、というのとは、すこし違うかもしれない。
作品そのものよりも、岡本太郎という人がすごく好きだ。
それは芸術家としては不本意なことなのだろうか。

だけれど、どの作品をとっても、どの発言をとっても、どの思索をとっても、至るところに、明白で力強いサインが書きなぐってあるのだ。
「岡本太郎」と。
拭っても拭っても消し去れない色濃さで刻まれたそれは、どんな表現方法を取ろうと、「岡本太郎」であることを主張してやまない。

私が憧れるのは、その猛烈な生き方、その強烈な生き方。
鮮明に、生命を燃やし、自分を表現しつくすこと。
岡本太郎が求めたのは絵画を描くことではない。
芸術を作ることでもない。
ただひたすらに、生命を燃やして表現すること。

「そういう風に人生を生きられたなら、なんにも悔いは残らないだろう。」

だけど本当は、悔いのない人間なんて一人だっていない。
誰でも迷い、うなだれ、悩みながら恐る恐る進んでいくしかない。
それでも「進みたい」と思うことに意味があり、「進むんだ」という意志に情熱が宿る。

岡本太郎。
芸術は爆発だと彼は言った、爆発こそすべての生命の源。

2009年10月10日土曜日

いち、にぃ、さんぽ!


自分が見ているこの世界と、君が見ているその世界と。
それが同じものだと証明するすべが、この世のどこにもないのだということは、とても不思議なことに思える。
私が見ているこの緑。
この光。
君が見ているその緑、その光。

君には、世界がどういう風に見えるのだろう?

だけど、どう見えていたとしても。
君に見える世界を、君が「素晴らしい」と言うのなら。

やはり世界は美しいのだと確信できる。

そんな午後の日差しでした。

台風一過・・・


今朝の空。
なんだか不思議な雲の紋様。
明るいのか、暗いのか。
整然と、それとも雑然と。
重たそうな厚い雲の、その向こうに太陽の光の気配がする。

きっと人生も、そんなものなのかもしれない。

2009年10月8日木曜日

「ヴィヨンの妻」再読。


このところ浅野忠信主演の映画化のおかげで何かと話題にのぼっている「ヴィヨンの妻」。
どんな話だったかと再読。
「あ、太宰らしいな」
読後の感想はこの一語に尽きる。

自己憐憫、自己嫌悪、拡大し彷徨する自我の強要。
放蕩な夫をどこまでも許容する妻という、どちらかといえばステレオタイプな話だと思う。

新潮文庫の同作品集のなかで、小作品ながら私が惹かれるのは「トカトントン」。
なにかに専心するとどこからか「トカトントン」が聞こえ、先ほどまでの、あれほどまでの情熱が一切合財消え失せてしまう。
なんという想像力。
なんという感性。
太宰が病んでいたからこそ実感を伴って描けたのか、それとも彼自身の想像力の結果なのか。
どちらだったかは、彼以外には分からない。

それでも、「トカトントン」と聞こえた瞬間にすべての執着心を失うことへの怖さと・・・そして、誤解を恐れずに言ってしまうのならば、ある種の羨望を禁じえない。

執着。

きっとそれは作家・太宰治を苦しめた、そして太宰を太宰たらしめたこの上もなく強いアイデンティティ。
だからこそ太宰には、この作品が書けたのかもしれない。
・・・・・・怖れと、憧れをもって。

本日、台風一過の青空。

2009年10月7日水曜日

ぽっぽっぽ~鳩サブレー♪


なぜだか急にとてつもなく食べたくなってしまった鳩サブレー・・・
閉店前のデパ地下に滑り込み、ぎりぎり5分前ゲット!
本日のザ☆収穫物です♪
みなさんも、そういうことたまにありませんか?
猛烈にどうしようもなく、鳩サブレーを食べてしまいたくなることが!!
この場合、ひよこサブレでも小犬サブレでも代用は可なのですが。
出来れば鳩サブレーがもっともテケポンの満足度が高い。

なぜならば。
鳩サブレーは歴史が古い!!
なんと起源は明治に遡るそう。
明治の文人たちがしぃんとした深夜に走らせていた万年筆をふと止めて、冷めて渋くなった日本茶と一緒に鳩サブレーを頂く、誰も知らない密やかな楽しみ。
・・・なんてことがあったかなかったかは存じませんが(笑)

そういうわけで、テケポンもただいま、鳩サブレーをかじりながらこのブログを書いていまーす(^^)
ほのかな甘み、バターバターし過ぎず、ミルクミルクし過ぎず、正しく和風のサブレーと言った感じです♪
なんだろうなあ・・・そう!「まるぼうろ」とかいうお菓子の風味に似ていますね♪

2009年10月6日火曜日

明治ミルクチョッコレイト♪


平日はなかなか更新が難しい・・・


でもっ。

本日は朝イチめっちゃラッキーな出来事に遭遇!


明治ミルクチョコレート山手線に乗車~♪

大のチョコ好きテケポンとしては大満足の通勤でした(笑)


ちなみに、電車を降りて出勤前に寄ったコンビニで早速チョコ購入。

これってやっぱり宣伝効果かな?

でもごめんね、買ったチョコは明治でなくブルボンだったり・・・てへっ。


このところ通勤のお供は、山口昌子「シャネルの真実」

というわけでココ・シャネルの本です。

シャネルの本はたくさん出ていると思うけれど、テケポンが読むのはこの本が初めて。

シャネルの知人が書いた本というわけではないので、歴史的背景、生い立ち等々と絡めて「こうだったのではないだろうか」という想像力が発揮された作品。

シャネルについて知るというよりは、シャネルという人物を通して当時のパリを知ると言った感じの本でしょうか。

まだ半分程度しか読めていないので、後半を読めばまた違う感想があるカモ?

2009年10月4日日曜日

そぞろ歩き


今日のお散歩は、川越方面。
喜多院の五百羅漢をじっくり眺め、自分に似ている人を探すけれど見つからず・・・
途中で飽きてしまうので、次回は手前からじゃなくて奥から探そう!


蔵づくりの街、有名な「時の鐘」のあるあたりは観光客やお店も多く、歩いているだけで楽しい町並み。

それよりもすこし外れた場所にある、駅近くのさびれた商店街にある、このステンド家具?アンティーク雑貨?のお店は必ず立ち寄るお気に入り


店頭に小さなランプが並んでいるけれど、こういった「ガレ風ランプ」なるものや、写真右上に下がっているステンドグラスを使用した照明、そのほか陶器のお人形など、狭い店内ところ狭しとこういった雑貨が並べられている。


いつか欲しいな、ガレのランプとステンドグラスの照明。

価格が高いわけではなく、どう見ても今住んでいるお部屋の雰囲気にミスマッチ。

うーん。こういうものは統一感が大事なんだよねえ・・・

一品一品、徐々に揃えていかなくてはいつまで経っても「憧れのお部屋」は完成しないと分かっていても、一気にぜんぶ揃えたいこの性格が邪魔をする(笑)

今回も後ろ髪を激しくひかれながら、お店を後にしたのでした。


本日の旅のお供は、松本清張「小説日本芸譚」
これは日本の芸術家10名に題材を取った短編小説集。

珠玉というとすこし褒めすぎか、小作ではある。

けれど、清張らしく、10名の芸術家達の内奥に潜む暗いものを淡々と抉り出している。


なかでも私が惹かれたのは「古田織部」。

武士であり、千利休の茶の弟子でもある古田織部。

利休を尊敬しておりながらも織部の心のうちに潜む芸術家としての心の闇を描き出した清張の力量にぞくりと寒気を感じる。


誰も真実なんて分からない、何百年も前に亡くなった人の心のうちなど誰にも分からない。

だが、清張が描き出した闇は、リアルだ。

それは、題材としては古田織部と利休という歴史上の実在の人物を借りたが、誰しもの心のうちに潜む「妬み」が曝け出されているからだろう。

さすがは清張。

2009年10月3日土曜日

中秋の名月


中秋の名月・・・と言っても、あいにくの曇り空で雲の切れ間から時々、まるくて大きな明るい月が顔を覗かせるくらい。


先月の重陽の節句のころもそうだったけれど、秋の月はなんだか、とてもおおきくて明るい。

圧倒されるような明るい月で、私はとても好きだ。

見ていると吸い込まれそうになる。

かぐや姫が帰っていった月はきっとこんな月だったに違いない・・・


今日の収穫は

新潮日本文学アルバム「三島由紀夫」

三島由紀夫の生涯が様々な写真と共に記録されている。


最近は文学や小説というよりも、こういった「実在の人物の記録」的な本ばかりを気がつくと手にしている気がする。

「三島由紀夫」という強烈な個性が歩んだ人生、彼自身が演出したかった「三島由紀夫」という虚像に惹きつけられてやまない。

三島が自分の生命を賭してまで完成させた「三島由紀夫」という芸術。

今宵はその芸術品を紐解いて過ごそう。