2009年12月31日木曜日

大晦日

数年ぶりに焼いたパウンドケーキ、ちょっと要領が思い出せず、型に対してタネが多すぎたみたい(笑)姪っこちゃん達は美味しい美味しいって食べてくれたので満足!


妹の義母が送ってくれた柿の葉寿司、私は初めて頂く。鯖と鮭の押し寿司で、とっても美味しい!葉の香りがほのかに酢飯に移ってなんとも言えない。土地土地でいろんな郷土料理があってステキだ。私の地元だとバッテラという鯖の押し寿司がある、透明に透けた美しい色の昆布が鯖の上に膜を張るように乗っていて、とても美味しい。


今朝、起きるなりケーキを焼きたくなった。
朝8時から開いている近くのスーパーに飛び込み、小麦粉とバターを買った。
以前、水天宮の境内で買ったドライフルーツ、それから、実家の母が送ってくれたプルーンを刻んで、パウンドケーキを作る。

今日は大晦日だ。
この一年間、たくさんのことをやり残してきた。
思い出せないくらい些細なことから、すごく後悔していることまで。
いろんな「やり残し」が私を切なくする。
だからその罪滅ぼしみたいに、私はケーキを焼いた。

「母が送ってきてくれたプルーンが食べきれないし、丁度いい、ドライフルーツでケーキを作ろう」
そう思って買った干し柿や干し苺。
妹宅に半分お裾分けにと思って、昨夜準備した。
そのときに、チリリと胸が痛んだ。

そうだ、私、これでケーキを焼こうと思ってたんだよね。

やり残したことの罪滅ぼしと、かわいい姪っ子達へのお土産に。
私は数年ぶりにケーキを焼いた。

なんだか、達成感に満ち溢れた大晦日になった。
神さま、ありがとう。

2009年12月29日火曜日

夕映え





フランスの冬の夕暮れ時を思わせるような、静かな風景。
私は夢中で見つめる。

まなざしほど精巧なレンズはない。
対象を捉える視覚の広さ。
色彩のわずかな違い、変化まで捉える正確さ。
瞬時にして驚くほど広範囲の情報量が瞳によって捉えられる。
常々人間の身体の高度な性能には感動せずにはいられないが、とりわけ、脳と視覚については驚嘆せざるを得ない。

私のまなざしが捉えた夕映え。
本当はもっと違うのに。
もっと美しく、もっと繊細な色彩で、もっと絶妙の角度なのに。

そう思いながら、シャッターを切る。
逃したくない一瞬間を、逃してしまったことを知るために、私はシャッターを切っているのかもしれない。

手に入らないから、美しい。
一瞬だから、心に焼き付けられる。

シャッターを切るのは、そのことを自覚するための手段のひとつ。

2009年12月26日土曜日

美的なる一日。

青と白が美しい版画


戴き物のお菓子、ユーハイムのりんごバウムクーヘン、美味しそう!


恵比寿?広尾?山種美術館近くのイタリアン、かわいいお店、ピザが食べたい!


展示室入り口、まるで電車のドアの向こうに違う世界が広がっているよう、京洛の四季・冬「年暮る」


山種美術館内、展示室へ降りる階段、2009年10月にリニューアルしたそう


原美術館入り口、レトロとモダンの調和


なんと珍しいピンク電話、これも原美術館の前庭にて



原美術館にて、楊福来(ヤン・フードン)の近代アートを鑑賞。
正直、近代アートは難解であまり親しまない。
それでも近代アートからは「伝えたい」という強い思いはひしひしと伝わってくる。
ただし、「何を」伝えたいのかが分からない・・・
やみくもに、洗練されていないしかし情熱的なエネルギーを感じたい時にはいい。
若い人には好まれるだろう。
館内でヤン・フードンのインタビューが流れていたが、おそらく十代か二十代、学生さんのような若い女性が食い入るように見つめていたのが印象的だった。
展示物の中ではパンフレットにも印刷されている「将軍的微笑」がよかった。
食事をしている人達のテーブルのうえの映像を撮影し、さらにそれをまた真っ白いテーブルに投影するというもの。
かなりシュールな映像だった。
原美術館の一番の目的は、建物そのもの。
洋式邸宅として作られたという美術館の佇まいは白を貴重とした、モダンで硬質な素材で作られているが、どこかしらレトロで懐かしい、温かみのある不思議な空間だった。
庭を望むカフェテリアでは美味しそうなランチやケーキ、ワインやシャンパンを提供している。
今日は時間がないので、カフェラテだけで冷えた体を温めた。
お昼からすこし日差しが出てきたので、丁度、庭に明るい日差しが差し込んで一枚の絵画のごとく美しかった。

さて、午後。
もう、ずっとずっと行ってみたかった山種美術館へ。
ここは、私が唯二(笑)、定期的に見ているテレビ番組のひとつ「美の巨人たち」で、度々登場してくる美術館だ。
惚れたのは竹内栖鳳の「班猫」の放送を見たときだ。
まるで生きているような毛並み、その神秘的な瑪瑙のような緑色の眼差し。
この猫に会ってみたい!と思ったのが、始まりだった。
しかしそれから何年か経ったが、結局一度も足を運ぶことがなかった。
山種美術館はたくさんの日本画を所蔵している。
本日の展示品は東山魁夷。
皇居を飾っているという満ち来る潮は超大作、金箔銀箔が荒ぶる波にちりばめられ、岩に砕けちる様は非常に勇壮、そして海の碧がなんとも言えない美しい風合いを醸し出している。
エメラルドグリーンと言うにはくすんでいる、強烈過ぎない鮮やかさは西洋画の油絵の具には出せない鮮明さを持っている。
顔料という絵の具、鮮やかさとくすみと静けさと強さと、本来で言えば交わらないものが交わっているような気がしてならない。
東山魁夷以外にもたくさんの同時期の画家達の絵が飾られていた。
私の眼を惹いたのは、川本末雄の「秋耀」という作品。
これが日本画なのか?と思うくらいに、色鉛筆で描いたような、童話の中に出てきそうな、温かい一枚だ。
湖畔に浮いた島が紅葉している、それが靄というか霧というか、茫洋とした湖畔にぼんやりと影を落としているような不思議な、しかし温かみのある一枚。
通り過ぎては戻り、通り過ぎては戻りし、絵の前に佇む時間を楽しんだ。
そしてなんと、次回展示物のチラシには私が憧れていたあの「班猫」がプリントされているではないか!
なんという幸運。
というわけで、早速前売り券を購入。
来年にはようやく憧れの君に会える。

そして、本日はなんと!
ステキな版画が我が家にやってきました。
青と白が美しい一枚。
クラシック音楽をテーマに作成されたというシリーズのうちの一枚。
偉大な音楽が一人の芸術家をインスパイアした瞬間です。
どこに飾ろうかな・・・迷います。
我が家で一番とっておきの場所へ飾りたいな。

私の夢は、書斎を持つことと、家の中のいたるところに自分の好きな絵を飾ること。
書斎の中に自分だけの図書館を創りたい。
並べ方はどうしよう、作家順?それとも出版社順?それともテーマ別にしようか・・・考えているときが一番楽しい(笑)
そして、絵画。
家の中のドコに居ても(というほど広くない、ていうかめちゃ狭いですが(笑))、常に視線の先には私が好きな世界が広がっている。
ささやかでいい、自分の好きなものに囲まれた、癒しと安逸の空間が創りたいです。
今はまだフィンランドのマリメッコ社ファブリックパネル、南仏のポスターにモンサンミシェルのパネル、コルビジェのモジュールをモチーフにしたポスターくらいしか飾っていないけれど、今、いろんな美術館に行った時にパネル用のミニポスターを集めてます♪
ある程度数が揃ったら、これら私が大好きな作品群を、選びに選び抜いた作品群を、壁一面にパネリングするの。
素晴らしくステキな眺めになるだろうな~♪
考えているだけでうっとりしてきます。
幸せなひとときですね。

2009年12月25日金曜日

ヴィタメール「ネージュ」

繊細にして大胆、濃厚にして調和、最高に美味しかった!

キャンドルも灯してみました、イエス様のお誕生日だから


断面を見るだけで、幾層にも変化しているのがわかります


こちらはおだふじのケーキ、ずばりの画像はなかったのですが、真ん中あたりにシンプル苺ショートケーキ


こちらはルブランのフランボワーズショコラ、久しぶりに食べに行きたくなっちゃった



~アーモンドのスポンジにホワイトチョコレートのムースとフランボワのジュレをサンドしました~

と、パンフレットの紹介文は極めてあっさりでしたが。
この衝撃の出会いをブログに残さずにはいられませんでした!

過去に食べたケーキの中で、間違いなく最高峰!驚愕の味わい!

トップを飾るこのレースのように繊細なホワイトチョコレート。
触れなば落ちんといった風情で、唇の中でふわっと敢え無く溶けてしまうこのはかなさ。
しかし、お味はミルクたっぷりの濃厚なチョコレート、さすがベルギー王室御用達のチョコレート専門店だけのことはあります。
切断面を見ると濃いピンクのフランボワ・ジュレが見えますが、これが濃厚な甘さの中で清涼感を演出します。
そして、背面。
クリスマスに相応しく、木の切り株のようなマーブル模様で、これも極限まで薄くしたチョコレートで作られていますが、お味はしっかり「キャラメル風味」。
なんて美味しいキャラメルチョコレート!こんなに薄いのに、きっちりとキャラメルを再現しています。
そしてキャラメルチョコレートと真ん中のしっとりアーモンドスポンジの間に、ホワイトチョコレートムースがたっぷり、これがまた・・・絶品!まるでカスタードクリームのような滑らかさ、ミルク風味。
このたったひとつのケーキの中にいったいどれだけの味が詰まっているのでしょう!?
どこの部分を食すかによって味が違う、甘味のびっくり箱・・・なのに、それだけいろんな味がしながら、それぞれが強い主張を持った最高の甘みながら、全体が品良く調和しています。
こんなケーキ、食べたことない!!

ここ数年、私のナンバーワンケーキは、おだふじのショートケーキでした。
極めてシンプルなショートケーキ、素朴な味わい、いつか食べた懐かしい生クリーム。
シンプル・イズ・ベスト!!
ほかにもおだふじでお気に入りなのは、大泉クリームというシュークリーム!
こちら、生地がさくさくと香ばしく、カスタードがとろ~り蕩けそうでなんとも美味!!
そしてもうひとつ、時々唐突に食べたくなるバニラプリン。
こちらはミルクというか、牛乳というか、とにかくバニラ風味がとってもまろやか。
そして舌触りも、とろっとろととろけていて、いわゆるプリンと言うよりはカスタードクリームを食しているかのよう。
いずれにしろ、おだふじの洋菓子はシンプルなものほど美味、というのがわたくしの持論。
余談ですが、プリンで好きなのは、モロゾフのプリンとアンテノールのプリン。
モロゾフのプリンは固めプリンでしっかり重厚、卵の味が濃厚で美味しい!
アンテノールは、モロゾフとおだふじの中間くらいの硬さでしょうか?
上は固いんだけれど、身はわりと柔らかく、こちらも卵、カスタードの味が濃厚で美味しい。
ちなみにわたくし、プリンにカラメルソース不要派です(笑)
茶碗蒸しみたいだって言われるけれど、カラメルソースないほうが、カスタードの味がしっかり分かって美味しいよ!

しかし・・・ごめんなさい。
今後しばらく、私のケーキライフはヴィタメールで決まりです。
今回迷ったクリスマスケーキ、「サンバ」というのがありました。
これがまた。
スイートチョコムースにチョコスポンジにミルクチョコムースに最後の決め手にチョコレート!!
チョコレート菓子専門店だもんね。
この、これでもかこれでもかのチョコレート尽くしのケーキ、いったいどんな夢のケーキだったんだろう!
ああ、食べたかったな・・・
でもクリスマスは見た目にもネージュで大正解!
そう、私は狙っています。
もうここ10年近く、バレンタインにはピエール・マルコリーニのチョコを買っていました。
だけど今年は、とうとう浮気してしまいそう・・・また出るかな、ヴィタメールのチョコレートケーキ!
きっと出るよね!嗚呼、どうしよう・・・!
わたくしただいま、ヴィタメールの虜です(^^)

おだふじの前に溺愛していたのは、ルブランのショコラ・フランボワーズです!
こちらも絶品~♪
友達と頻繁に新宿で会っていた頃はよくルブランでドリアとこのショコラフランボワーズ食べてたな~
・・・それちょっとカロリーオーバーだけど(>_<)
ドリアも美味しかったの♪
あ、また久しぶりにルブラン行きたくなっちゃった♪

2009年12月23日水曜日

忘れたくない。

お店の名前にちなんで


ピンク、茶色、白と三色のテディベア、三人でおそろのクリスマスベア♪


お土産に買っていった八天堂のクリームパン
創業昭和8年、広島はみはらという小さな港町のパン屋さんのクリームパンは
・・・絶品!!
こんなクリームパン食べたことないっ!やはり一押しはカスタード。クリームがホイップのように軽くて甘さがしつこくないのもさることながら、テケポンにはこのパン生地がミラクルだったよ!
こんな柔らかい、まるで牛皮餅のようなパン生地はかつて一度も食したことがないです。
口のなかでパン生地が蕩けるよう・・・あまりの美味しさに言葉を失う逸品
(ていうか、↑とっくにめっちゃ喋ってる(笑))




ので、記録します(笑)

12月23日、親友達とクリスマス会!
和食居酒屋さん、初めて行ったお店だけれど、混み過ぎず、そして年齢層が若くなく(笑)、たくさんお客さんがいてもそれほどうるさくなかったのがGOOD!
但し接客のお姉さん、一人は怖かった(笑)
もう一人はめっちゃ可愛くて笑顔がサービス満点だった(笑)
ま、居酒屋さんなんでね(^^)

お店の名前にちなんで食前酒ににんじんの甘いお酒。
これは親友にパス!
箸置きが本物のにんじん。
でも、、、いいのかな、なんかもったいないなって思ったりしてしまう、わたくし。

お料理も、普通に美味しかったです!
というのは、美味しかった!!ということです。
居酒屋さんというよりは、家庭の味というか、丁寧に作られた感じがして、最高級食材!とかそういうのでは全然ないですが、なんとも身体に優しそうな。
大変気に入りました。
職場の近くだったらな~って思っちゃった(^^)

あれこれ話している間に、あっというまに解散時間。
たわいもない話を、屈託なく出来る親友の存在が本当に有り難いと思った。
すごくノーマルな会話、すごくノーマルな反応、すごくノーマルな優しさ。
ごくごく普通の、当たり前の優しさが満ち溢れていて・・・
そう、「当たり前の」とか、「普通の」と言うと、「じゃあなにが当たり前でなにが普通なの?」ってなっちゃうと思うのだけれど(苦笑)
そういうことを説明せずに「当たり前」や「普通」の価値観を共有出来ていることがとても居心地よく、安心して自分のままで居られる。
オフィシャルな場ではなかなかそういうことは少ない。
自分と価値観が同じ人達とだけ過ごしているわけではないし、社会人には常にアカウンタビリティや相手をナットクさせること、ナットクいく説明を施すことが求められる。
だけど、時々言いたくなってしまう。
そんなの「常識」で考えれば分かるでしょう!
だけれど今の世の中、個性を大事にし、自由に教育した結果、民族に共通認識であったところの「常識」は日本では崩壊している。
「常識」は人により異なり、私の「非常識」は他者の「常識」であったりする。
それが世の中的に言うところの「個性」なのだ。
だからこそのアカウンタビリティなのであろう。
と、そんな世知辛い世の中だからこそ、何も言葉にしなくても価値観を共有出来る親友に巡り合えた、私はこの上もなく幸運な人生を送っているんだなと身に沁みて感じた時間でした。

2009年12月20日日曜日

下町散歩。






今日も、とても寒いけれど、とてもよいお天気でした!
休日にお天気がいいと、心ウキウキ弾みますね~♪

本日は日本橋、水天宮近辺をお散歩して参りました。
仕事で月に一度行くんだけれど・・・実は水天宮がどこにあるかも知りませんでした(^^;
思ったよりずいっぶん小さい神社でびっくりしました(@@)
しかも新しい・・・?
いろいろとイメージとは違いましたが、参拝者の方も多く、また地元でもきっと愛されているに違いない。
なんだかそんな雰囲気があります、はい!

そんなこんなで水天宮の賑わいです。
境内の犬ちゃんがマフラー巻いているのがなんとも可愛らしかった♪
境内でドライフルーツ・・・と言えば聞こえがよい(笑)
干し芋、干し柿、干し苺(これはちょっと私的には珍しかった♪)なんてものを販売してありました。
子どものころ、田舎のおばあちゃんや実家のおばあちゃんが干し柿を作っていました。
田舎に行けば軒先に、自宅では廊下の窓に沿って柿が並んでいました。
子ども心にはチョコレートやポテトチップスのほうが美味に思えて、おばあちゃんが作るお菓子、干し柿はもちろん、はっさくや夏みかんの砂糖漬けはあんまり好きじゃなかった。
おばあちゃんが好んで食べていたういろうやかんころもち、口砂香(こちらでは落雁って言うみたいですね)は、甘みが物足りなくて、なんだか、あんまり美味しく感じられませんでした。
でもおばあちゃんはとっても美味しそうに食べていて、それがまた不思議だった。
で、ちょこっと頂戴って貰って食べるんだけど、「もういい」って。
何度食べても、おばあちゃんが眼を細めて喜ぶような美味しさには感じられませんでした(笑)
でも最近、妙に、おばあちゃんが好きだったお菓子が懐かしく・・・この干し柿も、試食用を貰って食べたらめっちゃ美味!
苺は言わずもがな。
思わず「本当に砂糖使ってないんですか!?」って聞いちゃったくらい糖分がたっぷり♪
ドライフルーツは乾燥させてるので糖度があがって当然なんだけど、こんなに甘くなるものなんですね~、驚きでした。
干し柿は思い出が懐かしくて、苺は、これは母が送ってくれたプルーンと一緒にパウンドケーキに入れて焼いてみようと思って、購入!
袋から溢れるくらいにオマケしてもらいました(^^)
帰りにもう一度水天宮の境内に寄ったら、お兄さんの苺と柿完売してたよ~、よかったね。

それから人形町に向かって参道っていうのかな??つらつらお散歩しました。
途中に老舗も老舗じゃないお店も、和菓子やさんがたくさあります、どれも美味しそう~o(^^)o
気になったのは壽屋さんの練り切りの和菓子!!
なんとも言えず絶妙の美しい色合いに可愛らしい季節を表現したデザイン、和菓子は芸術だな~
お店のウィンドウに佇むこと十分。
かなり葛藤しましたが、先ほどドライフルーツを山盛り買ったことを思い出し、諦めました。
かなり頑張った、私!(笑)

そのまま進むと、甘酒横丁。
名前の通り・・・かどうか、分かりませんが、入り口の「双葉」では甘酒を店頭販売!
寒いからあったまるだろうな~・・・と、思いつつ、ここはがまんがまん。
お目当ての「柳屋」さん、列をなすほど美味しい鯛焼きだと伺っていましたが、残念ながらお休み。
今回せっかく日本橋に行くからと、あれこれグルメ本や池波正太郎の本をひっくり返して老舗店をチェックしたのですが、どこも日曜日はお休み(笑)
正しい休日の在り方ですね!よいと思います、うん。
そんな中で、絶対に買って帰りたいと思っていた「志乃多寿司」のお稲荷さんっ!
池波正太郎のエッセイにもよく出てきますね~。
なんでしょう、イメージは「会社の会合で酔っぱらったお父さんが”今帰ったぞ~”とふらふらになりながらぶら下げている折り詰めのお寿司」です。
で、こちらは無事にゲットできました~。
ていうか・・・お店が超新しくて、1階が店舗、その上はマンションだったことにまず驚きました~(^^;
そうか~、お味は明治を残しているけれど店の佇まいがそうとは限らないよね。
危うく通りすぎるところ、留まりました(^^)
本音を言えば、池波正太郎が通っていた頃の風情というのをかなり期待していたのですが・・・食べ物やさんは、要は味で勝負!ですよねo(^^)o
というわけで、おみやにして持ち帰り、夕餉に戴きました。
思ったより稲荷の味が濃いですね、そして思ったより甘め。
お昼にお蕎麦を戴いたときも、江戸前のお蕎麦のお出汁は濃く甘いなと感じたのですが、お稲荷さんもやっぱりそうなのかな?
これが「昔ながらの」お稲荷さんなんだな~と感激しながら戴きました。
とても美味でしたっ♪

ところで最近このブログは、食べ物ブログと化してきた感があります(笑)
ま、いいか(笑)

十ヶ月ぶりの再会



日付が変わってしまったけれど、今日は十ヶ月ぶりの友人との再会!
十ヶ月も離れていたなんて思えないくらい、いつもとおなじな私達。
イタリアンレストランで、開店の五時から閉店までずっと、親友だから出来る話、聞いて欲しい話、分かち合いたい思いや、たわいもない四方山話を交わしていた、ずっと笑っていた。
時が経つのを忘れてしまうくらい、あっという間に時間が過ぎてしまう。

時よ往くな・・・そんな思いで過ごせる時間を持てることは、とても幸福なことだと思った。
そんな友人達と出会えたことは、神さまからのご褒美だと思った。

毎月三千円ずつ、旅行積み立てをしよう、という話になった。
二十年後、貯まったお金で、三人でイタリアを旅行しよう!
なにを食べてもどのお店に入っても美味しいというナポリ。
それから、せっかく行くのだからフィレンツェやベネチアも行きたい、そうそう、島もいいね、シチリア島!
コルシカ島はマフィアが居そうでちょっと怖いね(笑)
夢はパンパンに膨らんでいく。

出会ってから十年になる。
あっという間の十年だった。
きっと二十年も、あっという間に過ぎていく。
そして二十年後もきっと、おなじように笑い合っていられる。
出会った頃の私達と今の私達、話している内容も置かれている境遇もそれぞれ全然違うものになったね。
だけどあの頃とおなじなのは、笑顔で止まらないGirlsTalkがいつまでもいつまでも続くこと。
う~ん、今はWomensTalkになるのかな?(笑)
一緒に年齢を重ねていくのが、とても楽しみだね。

さてさて、本日はとても美味しいイタリアンを頂きました!
高田馬場「文流」、これって文化交流の略だそうです。
お料理の写真ってとっても難しいですね。
お店の明るさもあるし、なんだか上手に撮れない・・・(;;)
それでも、これだけは載せておこう!
8年熟成のパルミジャンチーズと、300日熟成のゴルゴンゾーラピカンテ!
なにしろ、このゴルゴンゾーラ(茶色)が素晴らしきお味。
今までに味わったことのない風味で、まさに初・体・験!!
特筆すべきは、まるで香水のトップ、ミドル、ラストノートのように、味が三段階に変化していくこと。
最初、口に入れた瞬間はふわりと蕩けるような感触。
それからじわじわとゴルゴンゾーラ特有の青カビの香りと味が来て、それがだんだんと濃くなり・・・最後はぴりぴりと喉に沁みるような刺激が残る。
喉越しはかなり強烈、渋めの重い赤ワインには最適のように思える。
それに較べるとパルミジャンチーズはドライな固めの感触だが、味には甘みがあって、「どこかで食べたことのある馴れた安心感」がある。
どちらもそれぞれの味わいがあって美味しい。
本日は残念ながら私はワインではなくミネラルウォーターで賞味しましたが(おかげさまでよりダイレクトに刺激的な味を堪能させて戴きました(笑))、今度はしっぶい赤ワインと一緒に戴いてみたいです♪

それからやっぱり外せないのはドルチェ!
たしかこれは・・・ズコット?という名前だったような?ちょっと失念、残念。
木の実が入っていてクリームが甘くてふわふわ、フランボワーズ系のソースの酸味との相性がばっちり!
あ~、天国です!!
ちなみに友人が戴いたセミフレッドのエスプレッソ風味と言うのもこれまた美味しそう~!
これはズコットを冷蔵庫で冷やして、アイスクリーム風?ムース風?にしたものらしいです。

ちなみに、お店にはパネトーネという北イタリアの伝統的なクリスマスのお菓子(パン?)も売ってありました。(これはお店の自家製ではなく、既製品?というのかな、パッケージされた輸入物らしいです)
めっちゃ惹かれました。
が、さらに魅惑的なことに、クリスマスの24日、25日には、お店で自家製のパネトーネがクリスマスディナーのデザートとして振舞われるらしいです。
来年のクリスマスはこのお店でパネトーネに舌鼓をうちたいな~なんて、一年後のこと、気が早すぎますね(笑)
今日も大変幸福な一日でした♪

2009年12月16日水曜日

父からの手紙

ポストに、父からの手紙が入っていた。
差出人を見なくとも分かる、封書の宛名書きはひどく特徴のある金釘文字だ。
お世辞にも上手いとは言いがたい、むしろ小学生時代から進化していないのではないかと思われるような文字だ。
その文字を見た瞬間、涙が溢れた。

部屋に入り、取るものもとりあえず封を開け、父の文字が目の中に飛び込んできた瞬間、嗚咽を上げ、子どものように泣きじゃくっていた。

こんなに泣いたのはいつぶりだろうか。
もう、覚えてもいないくらい遠い昔のことのように思える。

頑固で意地の強い娘だ。
可愛気など全然ない。
一人で大きくなったような顔をし、なんでも勝手に決めてしまう。
家を出たときもそう。
「行くから」と、事後報告をしただけだった。

だけど。
父にとって、母にとって。
私は神経質で線の細い子どもだった。
こんなに大きくなったのに。
こんなにたくましく生きているのに。
こんなに強くなったのに。
父と母にとって私はあの頃の私のまま。

そして。
やっぱり、私はあの頃となにも変わっていなかった。
父のたった一通の手紙で私は、あっという間に子どもに還ってしまった。

父から手紙を貰ったのは、これが初めてだ。
お父さん、お母さん、私は幸福な娘です。

2009年12月8日火曜日

浅草の洋食屋さん



私にとって、洋食と言えば、ハンバーグステーキ。
母上が作ってくれるハンバーグにはケチャップなのだが、レストランで食べるハンバーグステーキはデミグラスソース。
ソースの分だけよそいきの雰囲気があって、幼少のみぎりは、レストランに行けば必ずと言っていいほどハンバーグステーキだった。
私の記憶にある洋食屋さんはMEIJIYA、それから、10階立てビルの最上階、くるくる回る展望レストランチサン。
もうどちらも無くなってしまったけれど。
ことに子どもの頃は展望レストランに連れて行ってもらえるとなるとソワソワうきうきしたものだ。
展望レストランでは必ず運試しをした。
なにかというと、着くなり、窓際に楊枝が入っていた袋を丸めて置く。
店員さんに見つからず、無事に一周してまた私の手元に戻ってくれば私の勝ち。
残念ながら途中で見つかって片付けられたら負け。
だけど、回るレストランはどこからがスタートなのかが分からず、目印がなくなってしまうと何周したか分からず、ぐるぐる回る窓の桟をずっと見つめていた。
それは、大人から見たら単なる悪戯だけれど、子どもの私にとってはめったに巡ってこない真剣勝負の一瞬だった。
見つかれば母に叱られる。
見つからなくても店員さんが済ました顔で大人にとってはゴミ以外のなにものでもないそれを片付けてしまう。
スリリングなひと時だった。

さて。
そういった田舎の洋食屋さんはしかし、今思うに、ファミリーレストランをちょっと見栄えよくしたものに過ぎなかった。
池波正太郎のエッセイはもちろん、明治の文人達の食を書いた「文人悪食」という本を読むと、西洋文明が日本に流れ込み、西洋が憧れであり目標であった頃の由緒正しき(?)洋食店が名前を連ねている。

一度、この、由緒正しき正統派洋食(そんなものがあるのか)が食べてみたい。
そう思いつつ、上京以来この方、一度もお眼にかかったことがなかった。
洋食よりもイタリアンだ、フレンチだと、かぶれてうつつを抜かしていたからだ。

さて、浅草。
浅草に行くからには、今度こそ・・・!
しかし私はそば好きでもあって、浅草に行くとあちこちに美味しそうな蕎麦屋がのれんを出しており、つい蕎麦屋にふらふらと入っていってしまう。
今度もかなり並木藪そばに惹かれたが・・・しかし、初志貫徹。

最後まで迷ったのは、永井荷風が足しげく通った「アリゾナキッチン」にするか、それともガイドブックを見て一目で気に入った「フジキッチン」にするか。
ちなみにこういった場合の私の食に対する勘というものは非常に優れていて、第一印象で「美味しそう!食べたい!」と思ったお店で「はずれだ・・・」と思ったことはない。
よって、非常にフジキッチンに惹かれる。
しかし、永井荷風だ。永井荷風が通った店、一度は行ってみたいじゃないか。
しかもアリゾナキッチンは、2001年くらいに一度、閉店したことがある。
もしかしたら・・・・・・いやいや、これ以上は言うまい。
悩みに悩んで・・・・・・これから先、また洋食を食べにくることがあるかないか、分からない。
だったら後悔したくない!自分の自慢の勘に頼ってみようじゃないか!

というわけで、フジキッチン、行ってきました!・・・と言っても行ったのは日曜日だったのですが(笑)。
すごく狭い。
狭いったら狭い。
狭いスペースをこれまた無駄なく十分に活用しているため、満席時(といってもいつも満席、外には行列、なんだが)はみなが非常に窮屈な思いをしながら食事をすることになる。

ところで、私が頼みたいメニューは席に着く前から決まっている。
ビーフシチューだ!!
・・・・・・え?ハンバーグステーキじゃないのかって?
そう。そうなのです。ハンバーグステーキではないのです。
そもそも私は普段からあまりビーフシチューを食べない。
しかし。
憧れの洋食は「ビーフシチュー」なのである。
ハンバーグステーキは好みなのだが、好んで食べているだけに、なんとなく普段着感覚になってしまっており、いつでも食べられるし・・・的な食べ物にカテゴリー換えされてしまった。
また、いろんな洋食屋さんの記事を見たが、大抵のお店の自慢の一品は「一週間煮込んでとろとろに蕩ける牛肉とデミグラスソースのビーフシチュー!」なのだ。
お値段も、ビーフシチューとそのほかの洋食メニューでは二倍近く違う。

というわけで憧れの洋食、フジキッチンのビーフシチューを食べて参りました。
説明は不要、めっちゃ美味しい!!こんなビーフシチュー初めて食べた~!!(そもそもビーフシチュー自体以下同文・・・・・・)
なによりも、料理人の方が、亡くなった祖父を彷彿とさせる上品な白髪の寡黙で華奢なおじい様でした。
戦後開店したというので、六十年余り。
おじいさんが黙々と煮込んできたシチューは、絶品。
やはり私の勘に狂いはない!(笑)

また食べに行きたい。
今度は車海老のエビフライを食べるんだ!!
それまで元気でいてくださいね、おじいちゃん。

2009年12月7日月曜日

美味しそうな空。


マンハッタンの朝。
近いけど違う(笑)
我らが隅田川の朝、その眺めはビッグアップルにもひけをとらず。

遠方より友来る。
10ヶ月前にスペインへ旅立った友が、年末年始の一時帰国。
お帰りなさい、待っていたよ。

2009年12月6日日曜日

賑わい。








12月に入ると、なんだかどこもかしこも「年の瀬」という雰囲気に満ち溢れているような気がします。
若い頃には(笑)クリスマスイルミネーションのほうが気になって、あちこち見に行きたがったものですが、最近はどちらかといえば、クリスマスよりも年末の忙しなさ、賑わいのほうが温かみがあって好きです。

というわけで、本日は久しぶりに浅草方面へお散歩に出かけました。
浅草、何年振りでしょう。
以前、両親が上京してきたときに、浅草へ観光に出かけ、演芸ホールなるものに行ってみました。
ゆっくり浅草を歩くのはそのとき以来のような気がしますが、、、

いいですね、浅草。
いつ行っても、賑わっている気がします。
老若男女、日本人外国人問わず。

浅草は古いお店がたくさん残っている街ですね。
そして古いお店を切り盛りされているのは昔は若かった、そしてお店と共に年齢を重ねてこられた方々。
お年寄りが元気に働いている街だなと、改めて思いました。

浅草に来ても、回る場所はいつもおなじ。
仲見世から浅草寺へ抜け、浅草寺から伝法院通りをぷらぷら。

私が好きなのは、古びたお店です。
有名な老舗店もあれば、全然有名じゃなくただ古びた、ショーケースの中のミニチュアのやきそばやラーメンが日にすすけて色あせているようなお店もある。
どのお店も、一様に、時を経たものだけが持ちうる色合いのようなものがある。

すべてが一瞬で様変わりしてしまう世の中だから。
まるで時代に置き去りにされてしまったかのように、しかし、そんなの関係ないわよ、私達は私達よと、確かな存在感とアイデンティティを持って存在しているこの街が、なんだか好きです。

浅草の年末年始ムードに感化され、2010年のスケジュール帳を購入しました。
といってもあともう一ヶ月もしないうちに2010年がやってくるのだから、そんなに早くもないですよね。
キャラクター好きのわたくし、2009年はくまのプーさん、今年は魔女の宅急便のスケジュール帳です(笑)
今年もすごくステキなことがたくさんの一年でした。
来年はこの手帳にどんな毎日が刻まれていくのかな。
・・・・・って、実は私、スケジュール帳にスケジュールを書かない人間なので、毎年とりあえずは買ってみるものの、およそ三日坊主に終わります。
最近のスケジュール帳は前年の12月分、つまり、2009年の12月分から使えるようになっているので・・・・・・そう、ここ数年、三日坊主の私は、新年になっても新しい手帳を開くことがないのでした☆
今年こそは自分の一年を振り返れるように、きちんとスケジュール管理したいものです(笑)

2009年12月5日土曜日

晩秋


気がつけばカレンダーも12月に変わっていた。
知らぬ間に、2009年も残すところあと一ヶ月を切っていた。

年々、過ぎてしまえば、あっという間の一年だったように感じる。
これは年若い人にはなかなか分かりづらい感覚だろう。
生きている年数に占める一年の割合が、私と若い人とでは断然に違う。
私にとって一年があっという間に、慌しく感じられてしまうのは、それだけ長く生きたということの証のように思える。

歳を取ると、若い頃には気にも留めなかったようなことが、ふと目に留まることに気がつく。
紅葉の色合い、若い頃はただ「綺麗だ」と思うだけだった。
しかし今の私は、この微妙な色の重なり、一枚の葉にのった赤み、黄み、青み、その絶妙な色合いに、刹那を感じ、なんとも言えず生命の味わいのようなものを感じる。
真っ赤に染まった紅葉よりも、まだ染まりきる前の赤みがかった黄色い色味の紅葉。
私が今一番好きなのは、そういった色合いだ。
強烈過ぎず、主張し過ぎず、柔らかく暖かで、運命を静かに受け入れている。
その静かな佇まいに、心が凪ぐ。

2009年11月29日日曜日

『転移』中島梓


以前も日記に綴ったが、今年5月にガンで亡くなった中島梓さんの絶筆、『転移』が出版された。
これは再発してから死の直前、昏睡状態に陥る当日まで書き続けられた中島梓さんの個人的な日記だ。
今日は誰それに会った、今日はなにを食べることが出来た、原稿を何枚書くことが出来たか、出来なかったか、身体の調子がどうか・・・
そういった個人的な日常の記録が続いている。
そして最後に・・・・・・

死は本当に突然訪れるものなのだということを、改めて知った。
それがたとえ明日をも知れない闘病生活を送っている方であったとしても、だ。
本当に、真実、「その瞬間がいつなのか」は誰にも分からない。
呼吸が停止し、心臓が機能を止める瞬間は、誰にも分からない、もし認識することが出来たとしてその直後に自分自身という意識体はこの世から消えてしまっているのだ。

最後の日の日記を見た瞬間、涙がとめどなく溢れた。
「生きたい」
叫びが、聞こえた気がした。

改めて、死は恐ろしい、と思った。

今日、私は紅葉を見た。
近所のお寺のお庭だったが、それはとても美しかった。

生命には限りがある。
だからその最後の瞬間まで力を尽くして精一杯生きることは、生命あるすべてのものの義務だと思った。

2009年11月22日日曜日

「食卓の情景」池波正太郎


食について書かれたエッセイがとても好きだ。
なかでも池波正太郎のエッセイは大好きだ・・・実は彼の本業であり大ベストセラーにもなっている時代小説は一冊も読んだことがないのだが。

そのほかにもいくつかお気に入りの「食」の本がある。
私自身が食べることが非常に好きだから・・・ということを抜きにしても、他人の「食」は非常に興味深い。

それにはいくつか理由がある。

ひとつ。
「食を楽しむ人は人生を楽しむ人也」
同様に、「仕事を楽しむ人は人生を楽しむ人也」というのも、わたくしの持論のひとつである。
人生の大半を、人は仕事をして過ごす。
例えば一日の目覚めている時間を十八時間としたならば、現代の勤め人は実にその七割、八割を職場で仕事をして過ごす。
人生の七割、八割を楽しめなければ、当然、人生を楽しめる道理がない。
同様に、人間は一日三度、または二度、食事を取る。
どんなに忙しくでも、どんなに食べたくなくても、たとえそれがたった5分で終わるものだったとしても、だ。
日に二度の、一年に730回(または1095回)の食事を楽しみにして待つか、それともただの消化作業として済ますか・・・・・・
それによって人生で体感できる幸せの絶対回数は大きく変わるだろう。
毎日会う人と交わす挨拶、毎日見る景色への感動、毎日味わう食事の喜び、、、
幸せになりたいと思うなら、何も特別のことをする必要はない。
日々、私達が生きていくうえで、何万回、何十万回、何百万回と繰り返さねばならない事柄を、ただひたむきに愛せばよい。
それだけで人生の幸福の絶対量は増える。
そしてそのことを実証するかのように、好きな食べ物について語る時、人はとても幸福そうである。

そして、もうひとつ。
「食は人生なり」
私が池波正太郎の食のエッセイが好きな一番の理由は、食とともに池波正太郎個人の思い出がふんだんに込められているからだ。
幼い頃に食べた縁日のどんどん焼き、それにまつわるテキヤのオヤジとの温かくしかしどこか危なげな交流、そして母、祖母、曾祖母との思い出、小さな手に握り締めた五十銭・・・
幼き日、父と母が離婚したことを知った担任教師が、そっと池波少年にだけ食べさせてくれたカレーライスのうまさ・・・
出征の途中で立ち寄った飛騨高山で見た冬山の光景、そしてそこで食べたチキンライス。
池波正太郎が愛した料理とは、それを作った人、出してくれた人との思い出とあいまって、ほんわりと温かい思い出に包まれている。
そして、池波正太郎が愛した店は、どこかしら「江戸の香り」を残した店ばかりだ。
池波正太郎が愛した職人の気質、誇り、こだわり、それはおそらく、自身の「作家」という稼業に賭しているものとおなじ匂いがするものなのだろう。
池波正太郎が書く「食」「店」へのこだわりは、池波正太郎の人生そのものの軌跡のように思われる。
池波正太郎がこの本を出版したのは昭和四十八年。
今を遡ることおよそ三十六年前。
池波正太郎が愛した店は、味は、江戸の香りは。
果たして今も残っているのだろうか。

食に関するエッセイは、ただひたすらに通ぶったようなものは、知識を得たいときにはまあよいとしても私個人の好みではない。
それよりも、作者の個人的な思い入れが匂い立つような、温かい湯気がほの立つようなエッセイが好みだ。

本日の収穫。
「星の王子さま」サン=テグジュペリ
「ふしぎの国のアリス」ルイス=キャロル
「絵のない絵本」アンデルセン
この三冊は実家に帰れば持っている本なのだが、”クリスマス限定カバー”という謳い文句に釣られてつい購入・・・卑怯也、出版社・・・
「老妓抄」岡本かの子
「おはん」宇野千代
これも実家で探せば以下同文・・・
なぜか無性に、明治の女の生き様を読みたくなりました。
「空気の研究」山本七平
「平凡パンチの三島由紀夫」椎根和
この二冊だけは初めて読む本で楽しみです。

本屋に行けばたくさんの新刊本が並べられている。
だけれども、残念ながら、あまり興味を惹かれる本は少ない。
だからおなじ本を繰り返し繰り返し買ってしまうのかもしれない。
古き良き時代、日本人のベル=エポックを求めて。

2009年11月17日火曜日

家具の音楽


音楽家に、エリック・サティという人がいる。
私にしてはめずらしく、クラシックで「好きだ」と言える唯一の作曲家かもしれない。
だいたいにおいて私は部屋で音楽をかけることはない。
「ながら」が好きではない私は、考え事や読書をするときに音があるのを好まない。
だから音楽を聴くときには「これから音楽を聴きます」という体勢に入ってから聴く。
そうして大抵、通勤の時にはJ-POP、休日の夜はJAZZと決めていて、クラシックを聴くことなど月に数える程度しかない。
そんな私が、気まぐれに流すのではなく、「これが聴きたい」と思って聴く唯一のクラシックがエリック・サティのピアノ曲だ。

彼の音楽は多くの人が、CMやいろんな場面で聞いたことがあるだろう。
クラシックと言う言葉から連想する音楽とはすこしかけ離れた・・・
音楽に詳しくない私でさえ、どこか変調を用いた、すこし風変わりな音楽だな、と思う。

しかし、風変わりなはずの音楽は、まるで自己を主張しない。
どこか、座りが悪いような、噛み合わせが悪いような、そんな居心地の悪さを醸し出しながら、一方で、流れていてもまったく邪魔にならない・・・その点で、いわゆるオーケストラなどのドラマチックなクラシックとも、ショパンやシューベルトの華やかな軽やかなピアノ曲ともまた違っている。

家具の音楽。

音楽はロビーに添えつけられた椅子のようなもの。
そこにあることを意識する必要がまったくなく、私達の生活を遮り邪魔するようなものではない。
サティは音楽をそう表現したことがある。

変わり者と言われたサティの音楽は、私の部屋に静かに流れる。
華麗でも重厚でもロマンチックでもなく。
流れていることをふと忘れてしまうような気安さで。

心が疲れたときには、サティの曲を聴く。
頭のなかを空っぽにしたいときには、サティの「家具の音楽」で頭のなかをいっぱいに満たす。

なにもかもを静けさで塗り替えるような、そんな、音楽。
それが私にとってのエリック・サティ。

2009年11月16日月曜日

母上様。


母が漬けたらっきょうが一瓶。
これまで食べたどんならっきょうよりも美味である。
いくつでも食べられる、気がつけば一瓶なんてあっという間になくなってしまいそうなくらい美味しい。

だけど。
実は母が漬けたらっきょうを食べるのは、もしかしたらこれが初めてかもしれない。

母は料理が苦手な人だった。
だから、食卓にのぼるらっきょうや白菜漬け、それから梅酒などは、父の母や、母の母が作ったものだった。
最初に、父の母が亡くなった。
父と母は、結婚して最初の1、2年を除いてはずっと、父の母と暮らしていた。
母はこれ幸いとばかりに、料理はほとんどこの父の母に任せきりだったので、らっきょうや梅酒は父の母が漬けたものだった。
また、母の母も料理がとても上手な人で、ことに白菜漬けや十六寸を甘く煮たものなどは私の大好物で、田舎に帰る度に山盛りいっぱい持たせてくれた。
その母の母も、病気で身体の自由がきかなくなり、母に美味しい白菜漬けや十六寸を持たせてくれる人はいなくなった。

それから何年か経って。
実家に帰ると、母は、父の母が使っていた大きな梅酒の瓶を使って、梅酒を造っていた。
甘いお酒は嫌いだと言っていた母が、自分で漬けた梅酒を振舞ってくれた。
それから、今年。
実家に帰ったときに、母はらっきょうをつけていた。
誰に教わったのだろう。
父の母が元気なときも、母の母が元気なときも一切漬けたことがなかった母なのに。
甘酸っぱいらっきょうはいくつ食べても飽きることがなく、すこし酸味のきいた浅漬けの白菜はとても美味しかった。

甘えたの母は。
父の母や、母の母が元気なときは、もっぱら食べる側だった。
母に似たものぐさな私は。
母がいなくなったあとに、らっきょうや白菜を漬けるようになるのだろうか。
出来ればそれまでに、母にこの美味しいらっきょうの漬け方を教わっておきたい。
でも母のことだからきっと。
ぜんぶ目分量だからよくわからないのよ、と、笑って答えるに違いない。

2009年11月15日日曜日

霊峰富士


ベランダから見える景色に、優美な三角形をしたシルエットがくっきりと浮かび上がるようになる。
今年も、そんな季節がやってきたのだな、と思う。

不思議なことに、そのシルエットは夏はなかなかぼんやりとして像を結ばない。
空気がきんと冷えた、凍てつくような寒さの日ほど、その影がはっきりと見える。
それともそれは気のせいなのだろうか。

冬の日の空気は透明度が高い。
と、勝手に思っている。
空気に余分な水分が混じっていない分、遠くまで、遠くまで、歪みなく見渡せる。
と、勝手に想像している。

だから、冬の日の空はことさらに遠く高く、ことさらに澄んで見えるのだと。
幼い頃から勝手にそう思い込んでいた。

だけれど。
ずいぶん大人になった今でも、きっとそうに違いないと思っている。

心にも空気にも、余分な湿り気などないほうが、まっすぐに遠くまで見渡せるような気がする。

2009年11月11日水曜日

ちまたに雨の降るごとく


我が心にも涙ふる
かくも心ににじみ入る
この悲しみは何やらん

今朝の雨は久方ぶりに激しかったですね。
ぱらぱらの雨はここ最近もあったと思うけれど、「雨が降った!」をたっぷり実感したのは久しぶりのことだったような気がします。

雨の日は嫌いじゃない。
スーツもヒールもバッグも濡れちゃうし、髪もぼさぼさになっちゃうけれど。

雨が地面を叩く音。
視界にフィルタが一枚かかったような感覚。
レンズを通して見たときのようなかすかな歪み。

いつも見ている風景が、実は、ただ私の眼という小さく頼りない器官を通しているだけの曖昧で不確実な姿に過ぎないのだと。
見えているものがいつもまっすぐに正しく瞳に飛び込んでいるのだというのは実は錯覚に過ぎないのだと。
知ることは必ずしも不快なばかりではない。

なぜならば視覚だけでなく。
神経も、感覚も、思考も。
すべては「ただ自分はそう感じている」というだけの、錯覚に過ぎないものかもしれないのだから。

ただひたすらに、自分という器官が感じたことだけが真実。
人はそうやって自分の真実のなかで生きている。
もしその真実を他人と共有することが出来たら。
・・・・・・いや、それは決して共有することは出来ない。
だから人は「共同幻想」を抱く。

双子が見ている夢は「共同幻想」なのだろうか。
それとも本当に、双子はまったくおなじ体験を共有し、感覚を共有することが出来るのだろうか?

アンドロイドは夢を見るのか。
それはSFにおけるひとつのテーマである(あった?)が、私にとっては「双子はおなじ夢を見るか」のほうが興味深い。

それにしても。
ヴェルレーヌという詩人を偏愛しているということは決してないのだが、ヴェルレーヌがもつサンチマンタリズムはある種日本人の感覚に近いのだろうか?
私に限らず、多くの人の耳に、ヴェルレーヌのいくつかの詩はしっかりと刻まれている。
こんな雨の日は。
つい、ヴェルレーヌの詩を、意味も分からずに口ずさんでしまう。

2009年11月8日日曜日

行き止まり


長崎本線の終着駅。
線路は駅を貫いておらず、ここで途切れていた。

行き止まり、終着点。

そこはほんとうに小さな駅だ。
終着駅、という言葉から想起されるようなドラマチックな気配は微塵も感じられない。

明るく、のどかで、人もまばらだ。

それが「長崎」という町の本質なのかもしれない。

2009年10月29日木曜日

隙間


誰にでも隙間がある。

その隙間は時々刻々形を変える。
似たような形をしているけれど、でもまったくおなじではない。
だから、その隙間に嵌まるものも、その時々で違った形をしている。

今日の私は。
今日のあなたは。
いったいどんな形の隙間を抱えていたのだろう。

そして今日のあなたの隙間は。
どんな形で埋められたのだろう。

隙間があるから。
埋めてくれるものがあることに気がつく。

隙間があるから。
ひとはひとりでは生きてゆけないと知ることができた。

2009年10月28日水曜日

無。


心のなかをからっぽにして。
空を見上げる。

心は反射鏡。

美しい景色を見れば、美しい輝きを返す。

2009年10月27日火曜日

瞬間


ブログを書くようになってよかったこと。

ブログに載せる写真を撮ろうと、ふとした瞬間に足を止めるようになった。
これまでの私だったら気づかずに通り過ぎた瞬間、或いは気持ちのどこかにわずかに触れて、でも足を止めるほどのこともなく過ぎ去っていた、そういった一瞬に、今の私は立ち止まる。

私が好きな瞬間。
私を瞬間捉えたなにか。

それはほんの一瞬の空の動き。
雲の形。
木々の隙間から漏れる光彩。
雨に濡れたアスファルトのわずかな湿り気。
どこまでも続いていくかのような道。
風に翻る国旗。
鮮やかな色をひっそりとのせた花弁。

たったそれだけのもの。

たったそれだけのものが私の心を作っている。
そのことに気づいた、一瞬間。

足を止めた私が手に入れた、大切なもの、私のかけら達。

2009年10月26日月曜日

贅沢な生き物。


毎日がこともなく過ぎていく。
ことに、感謝を忘れる私が、時々いる。

毎日がとりたてて格別のこともなく過ぎていく。
大きな不幸がないこと、への、感謝を忘れている私がいる。

「感謝をしなさい」
「感謝をしなければ」

人間は感謝を知らない生き物。
だからきっと「感謝」という言葉が生まれたのだろう。

いつもいつも、四六時中、寝ても醒めても。
感謝をしようと思えば、身の回りのすべてに感謝することが出来る。
そのくらい人間は、依存しなければ生きていけない生き物だ。
だけれど、もし身の回りのすべてに四六時中、二十四時間感謝し続けていたらきっと息が詰まる。

なので、人間は「忘れる」ことが出来る生き物になったのだと思う。

今日の出来事、良かったこともすこし悲しくなったことも。
どちらも人間は忘れてしまう。
だから明日も生きていける。

良かったことも悪かったことも。
忘れて、時々ふと思い出す。
だから人間に「感謝」という言葉が授けられたのかもしれない。
忘れていたことにほんのすこし感じる気まずさと気恥ずかしさのために。

2009年10月25日日曜日

「かんじんなことは目に見えない」


「こころで見なくちゃね」


有名な「星の王子さま」の一節です。

星の王子さまというのは非常に難しい童話だと思います。
アフォリズムに溢れ、人生の哀歓に溢れ、子どもにとってはすこしストレートではない表現で描かれた物語。
この物語が「大人のために書かれた(描かれた)童話」と言われる所以でしょう。

私はこの本をある程度大人になってから・・・高校生時代に初めて手に取ったような記憶があります。
象を飲んで動けなくなったウワバミの絵。
純粋ではない大人にはそれがなんだか分からない、帽子の絵としか見えない。
そんな出来事を忘れて大人になっていた僕の目の前に現れた小さな星の王子さま。
彼だけはそれがひとめで「象を飲んで動けなくなったウワバミの絵」だと分かってくれた。
それから、小さな王子さまは僕の大切な友達になった。
当時、相当にヒネた文学少女だった私は、このエピソードにノックアウトされ、作者のフランス人らしいエスプリの効いたアフォリズムに惹かれました。

しかしそれから何年も経って、箱根の星の王子さまミュージアムに行ったときに、初めて、物語の中に出てくる高慢で我が儘、しかし王子さまの大切なバラの花が、作者サン=テグジュペリの妻の投影であることを知り、この作品は、砂漠で飛行郵便夫を務めるサンデグジュペリの心のうちを綴った・・・それはある意味では創作であり、ある意味ではまったく創作でなく彼の心の内奥を小さな王子さまの姿を借りて吐露した真実の物語だと知り、私のこの物語への思いはいっそう深まりました。

この物語は子どもの心を忘れた大人へ、子どもの心を思い起こさせる作品だ・・・と、紹介されることがままあります。
しかし私には、この作品は、大人になりきれないままに大人になってしまった孤独を癒したい人のための作品ではないかとしばしば思えます。

この作品のテーマは「孤独」

大人は孤独です。
作品に登場するステレオタイプな7人の大人達。
これを童話として捉えるのならば、それはありふれた警句のように見える。
しかし、その滑稽な姿に皮肉を感じながら、それでもひとりぽっちで生きていくしかない彼らの姿に、私はどこか強烈な孤独を感じてしまう。
大人であることの、大人になりきれていないことの哀しみ。
滑稽な大人たちも、主人公である僕も、つねに「本当の僕の心を分かってくれる誰か」を求めているように思えてなりません。

本当の子どもは、孤独ではありません。
彼らには常に「子どもだけの世界」があり、その世界のなかで彼らの自由な想像力によって作り上げられた独特の世界を共有していつでも夢の世界に羽ばたけるのです。
理解を得られず、理解してくれる友を求めて孤独を感じるのは、実は大人の感性ではないかと。
私はそういう風に思うのです。

五千ものバラ。
でもそのどれも「ぼくのバラじゃない」
ぼくにとってたったひとつのバラであることの意味。
その意味を見出したとき、初めて人は、孤独ではなくなるのかもしれません。